教育福島0082号(1983年(S58)07月)-025page

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随想

 

思い深ければ

鈴木博子

 

しい思い出を胸に、子供とともに生きようと、再び歩み始めた道であった。

 

「思い深ければ道は開ける」。ある研究会で講師の先生がおっしゃった言葉である。私にとって、とても心の落ち着く感銘深い言葉であった。この道を選んで、もう十二年。無我夢中で歩んできた。一度はざ折し、一年ほどこの道を退いたことはあったが、再び舞い戻ってしまった。この道への思いが、再び私に扉を開いてくれたのでしょう。今思えば、私が小学校に入学する一年前、地元の人々の熱意によって私設保育園が開設された。そこで初めて経験した集団生活の楽しい思い出と初代園長を勤めた父の影響を受けて、この道を歩むようになった。設備の整わない、ただ広いだけの古い園舎。なかなか保母さんが居着いてくれず、保母捜しに奔走したと言う。給料は、みんなで出し合って払っていたとか。そんな苦労など全く知らず、園生活はこの上もなく楽しかった。先生や友達と一緒に、一日中かくれんぼをしたものだ。その頃は、トイレが外にあったため、絶好の隠れ場所とばかりに隠れた三が、お昼近くになっても、誰も捜しにきてくれない。まるで良寛さまの話のようなものだった。こんな楽しい思い出を胸に、子供とともに生きようと、再び歩み始めた道であった。

今年も元気な子供達が入園してきた。私のクラスには、二歳の時、線路の事故で右足を失った義足のM君が入ってきた。入園式の日、母親は残って、息子の義足をはずし、私に見せてくれた。股の半ばから切断ざれた痛々しい足であった。でも母親の表情は屈託がなく明るかった。「先生、お手数を、おかけしますが、よろしくお願いします。なんでも、みんなと一緒にやらせて下さい」私は、少々不安はあったもののこの母親の、子供を思う気持ちに力強く、うなずいた。M君は、とても明るい子供だった。自分の足のことなど、あまり気にかけている様子はない。他の子供達が、ズボンの裾から見える、ちょっと異なった足を不思議そうに見る。M君は、ひるまず答えるのである。「ぼくの足、機械で動いているんだよ」「フーン」と初めは不思議そうだった子供達も、その言葉を素直に受け止めた。「先生、M君の足は、機械で動くんだって。すごいね…」。この頃、M君の成長に伴い、義足があわなくなってきたらしく、歩くとギィギィ♂ケが出て歩きづらそうである。でも朝のマラソンも息を切らしながら、自分でがんばって走る。五月の徒歩での遠足では、数日前に母親が尋ねてきた。「先生、みんなに迷惑をかけるといけないから、先に送って行って目的地の公園で待っているようにします」とのこと。いろいろ迷いはあったが、本人の体に負担でなければ、ぜひみんなと一緒に参加させたいと申し出てみた。それを聞いた母親は、とても嬉しそうであった。さわやかな五月晴れに恵まれた当日、手伝いの役員の方に手をつないでもらい、長い道のりを、少し遅れながらも、最後まで歩き通した。その上、土手すべりをしてズボンは真っ黒。砂ぼこりで黒ずんだ汗が光っていた。笑顔がまぶしかった。やっぱり、みんなと一緒に歩かせて良かった。M君の顔を見て、私もとても満たされた気持ちになった。M君にも将来の夢があるだろう。いや、これから出てくるのかもしれない。その道が困難であっても、M君の思いが深ければ、きっと、かなえられるだろう。

クラスの子供達も、だいぶ園生活にも慣れ、落ち着いてきた。友達にも目が向くようになった。そろそろM君のことを話してあげよう。そしてM君一人では無理な所を補ってもらおう。世の中には、いろいろな面で障害をもつ人がいるということ、その人達も一緒に生活しているということを教えていきたいと思う。M君やM君の母親と同様、私のこれから歩む道にも、多くの困難や仕事上の悩みが待ち受けていることだろう。でもそんな時は、「思い深ければ道は開ける」という言葉が、私を支え励ましてくれるに違いないと思う。

子供達は教師を選ぶことができない。一人一人の個性をよくみつめ、その中に秘めている芽を、可能性を、ひき出していける教師でありたい。いくつになっても、子供と一緒に感動できる心豊かな教師でありたい。と欲ばりな私は願望ばかりが、いつもいつも、いっぱいである。

(塙町立塙幼稚園教諭)

 

 

 


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