教育福島0082号(1983年(S58)07月)-028page
随想
思い出と、今
影山正江
初めて教員として勤務したのは、戦後間もないころであった。今顧みると年月のたつのは速いもので、教員生活も三十有余年が過ぎた。
初めて赴任した学校。そこは、村にまだ電気がひけないランプ生活の山の分校だった。十五名の児童との出会いがあった。また物資の少ない時代だったが、自然に恵まれた緑の野山で、子どもといっしょに行った山採取りなどは楽しみだった。
春の運動会は地区運動会であった。PTA、婦人会、青年団、そして年寄から幼児までの全家庭全家族参加の運動会であり、ラジオもなく、娯楽の少ない山村の人にとって楽しみのひとつであった。
夏の湖畔キャップは、父兄と一緒に行い、水泳をしたり、魚をとったりする。そして釣った魚を夕食のおかずにして喜ぶ子どもの笑顔があった。
夜ともなればたき火を囲み、時のたつのも忘れ、親子で歌うなど楽しい思い出である。
こんな地域ぐるみのふれあいが続いているうち、町よりひと足早く山の木の葉が色づき始める。そのころにると秋の遠足、親子いも煮会などの行事が組まれる。自分たちの手できのこを採ったこと、澄みきった空をあおぎ、川原で腹いっぱい食べた満足そうな顔などが、思い浮かぶ。
この行事が終わるともう冬の準備にとりかかった。放課後、あるいは午後から、毎日のように山に出かけ、たき木どりである。たきつけにする枯れた杉の葉や松かさを集める。こんな作業にも愚痴をこぼす子はいなかった。その反対に「先生、今日も行くべ」「先生、今日はあっちさいくべ」など、こんなことばが話されたのが忘れられない。子どもたちは一冬分のたき木の山を見て一安心したようすであった。
たきぎとりがすむと、もう冬ごもりである。学校の窓に半分板がうたれ、薄暗い教室になってしまう。こんな教室でも、子どもは明るく伸び伸びと勉強してくれたことを思い出す。
このような分校勤務で教えられたことは、学校や、自分自身が、今までやってこれたのは、父兄や地域の協力のたまものであることを忘れてはならないということであった。心のふれあいである。このふれあいこそが学校生活そして社会生活の基礎となるのではないだろうか。
今、精神薄弱児の養護学校に勤務している。この子どもたちについて思うことは、なにも精薄児に限ったことではないが、人間の幸福は、その健康の基礎の上に立つものであるということである。
健康なからだの持ち主であって、運動能力や感覚能力があれば、いろいろな行動の領域をひろげ、経験を深め、生活内容を豊かにすることができるだろう。この能力が乏しいということになれば、行動の領域もごく限られた範囲にとどまってしまうことになり、その子どもにとって、知的にも、情緒的にも、社会的にも、好ましくない結果になってしまうだろう。日常生活に耐える身体的状態を備えるだけでなく、社会的自立のために要求される身体条件にも、十分にこたえるものをあわせ指導していきたい。
この仕事が、私に課せられた仕事であり、純粋な子どもとのふれあいは、私にとっては、貴重な人生経験である。これからもこの仕事を続けていきたいと思っている。
(福島県立猪苗代養護学校教諭)
心のふれあい