教育福島0082号(1983年(S58)07月)-045page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

教育福島0082号(1983年(S58)07月)-045page


こぼればなし

あとがきにかえて

 

五月雨が、乾燥しきった空気をなだめすかすようにふりそそいでいる。静かな音と連れだったこのしとやかな水垂れは、やがてうっとうしい梅雨へと変わって行くのであろう。野梅の実もふくらみをみせて、暦の上では、今日が梅雨の入り。

その昔、この田植の雨のそぼふる季節に、人々は謹慎生活をおくり、恋人に会うことすらも避けて、「長雨の空」を眺めては、独り物思いに沈んだという。だがいま、「ものおもいのあめ」を語るには、あまりにもすべてが現実的でありすぎる。

 

芭蕉が、須賀川に等躬を訪れ、そして別れて北上の途をとるまでの七日間もちょうどこの雨の季節であった。「奥の細道」の本文では「風流の初やおくの田植うた」の次に詠まれた歌は、「世の人の見付ぬ花や軒の栗」の一句であるが、曾良の「俳譜書留」によると、世をいとう僧桑門可伸は栗の木の下に庵をむすび、この隠栖のぬしとの連句として、

隠家やめにだヽぬ花を軒の栗  翁

稀に螢のとまる露艸 栗井

切くづす山の井の井は有ふれて 等躬

畔つたひする石の棚はし 曾良が挙げられている。

芭蕉は、旧暦四月二十三・二十四日の両日、「晩方へ可伸ニ遊」び、「書過(より)可伸庵ニテ會有。會席」(曾良随行日記)をもっているので、このときに詠まれたものであろうか。可伸は、釈可伸、栗齋、栗井、栗梁とも。「世の人の…」の詞に、「栗といふ文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと…」と芭蕉がほめたために、元禄十二年刊の等躬の編んだ「伊達衣」の中で、可伸は、「予が軒の栗は更に行基のよすがにもあらず。唯實をとりて喰のみ成しを、いにし夏芭蕉翁みちのく行脚の折から一句を残せしより人々愛る事と成侍りぬ」と語り、

梅が香を今朝は借すらん軒の栗

の名句を詠んだのであった。

ところで、「世の人の見付ぬ花」は栗の花である。この花はまた、そのかそけきほどに純真な白い花かげに住んでいた俳僧可伸でもある。もともとこの時代の旅人は、それが俳人の旅人であればなおのこと、宿を借りたり、会席をもった家のぬしに、あいさつがわりに句を詠んで残すのがならわしであった。「世の人の…」の句はその意味でも、芭蕉から可伸に与えられたものであったろう。芭蕉はこのとき、行基菩薩まで例に出してほめたたえたのであったが、可伸の恐縮ぶりはいかばかりであったろうか。

 

今月の表紙は、この恐縮した僧栗齋。描れた犬が、栗齋の恐縮ぶりをなぐさめているようだ。そしてまた、この栗齋と米倉免氏とがここでも二重に焼きついてくるのは、どうしたわけか。

 

そとはまだ霧雨。色彩豊かな雨具をつけた小学生の列が、雨の中で生きづいている。(ひ)

 

 

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。