教育福島0083号(1983年(S58)08月)-029page

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随想

 

陽のあたる場所へ

 

高久庄三

 

高久庄三

 

個々の生徒は、ガラスのかけらそっくりで、その心の屈折によってなんらかの小部分を反映する。「機会を均等に与える」このことは、どの生徒にも「芽を出させる」ための不可欠な基本だと思う。教室では、なんといっても知的な活動が主になりがちだ。あの人はよくできるが、自分はだめだというような意識は、生徒の世界には案外に強いものです。ですから、ともするとクラスの中は二大陣営になりがちだ。教師の発問に敏感に反応して活発な学習をする。したがってその生徒たちはほめられる回数も多くなる。それらの生徒たちは自分でも授業展開のペースをのみこんでいて、水を得た魚のように楽しんで学習する。そこでますます教師に認められる。すなわち、芽が出ている一陣営ができあがる。ところがもう一つの陣営、理解の遅い生徒の場合は、教師の話を理解できたかどうか心配である。このまま放置すると遅れてしまう。そこで指名してみる。生徒の反応は自信がないから声も小さい。もっとはっきりと答えなさい、と教師は要求する。すると、ますます下を向いてしまう。いわゆる「教室のお客さん」すなわち芽の出ない第二の陣営ができあがる。

特定の生徒を除いたあとの過半数の生徒たちは、どうせ自分はできないのだからと、劣等意識からそれぞれ自分自身の穴をつくって、その中に閉じこもってしまう。これが自然発生的なクラスの雰囲気ではないだろうか。教室でじっとしていれば、先生から指名されないと思っている生徒にとって、毎日の授業は、どんなにつまらないことであろうか。そしてこれが習慣に近いものになってしまって、そのために、これらの生徒の中には、思考活動まで停止させたままになってしまっている者もいる。その結果、それらの生徒たちの中の、ちょっとでも血の気の多い者は、教室でのうっぷんを他の場で発散させることになる。

 

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さて教師は、このような生徒たちのために、その無気力をとりのぞこうと苦労するのだが、結局それはむだに終ってしまうようだ。なぜなら、根本のものにメスを入れないで、表面にあらわれたことだけをなおそうとするからだ。根本のもの、それはなんだろう。

教室を生徒にとって「陽のあたる場所」にしてやること、それが第二の陣営に活力を与える根本対策であると思う。自然発生的に固定したクラスの雰囲気を打破してやること、一人一人に均等な機会を授業の中で与える組織をつくってやることがかんじんなことである。二大陣営のぶちこわしの中から均等に与えられた機会によって、生き生きとした生命がクラスの中に生まれてくることと思う。

 

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「教師は魂の技術者である」とはマカレンコのことばです。これも常にわたしたちを刺すことばである。「子供の中には、問題児はいない」とも、マカレンコは確信をもっていっている。「もし問題児をつくってしまったとしたら、それは教師の力量不足からくることも大きいといえる」「教師の力量によっては、引き出し得る子供の可能性は無限である」このようにいうマカレンコのことばに私は教師としての使命を強く自覚させられる。また、石川達三氏は「人間の壁」の中で、教師は「鵜匠が鵜を操るように一人一人の生徒たちを、一度に動かしながら操っていかなければならない。それは指導技術より、ひとつ前の技術、生徒の心を学習に集中させる技術である。子供の頭脳は、楽しいときだけ活発に動く。教師の技術は、子供の頭を活発に働かせる刺激剤のようなものである」といっている。

 

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生徒を信じて「陽のあたる場所」をすべての一人一人に提供すべく、今日を力強く生きていきたいものと思う。

(三島町立宮下中学校教諭)

 

 

 


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