教育福島0083号(1983年(S58)08月)-030page

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随想

進路指導に思う

 

小沢晴元

 

小沢晴元

 

毎年春になると、高校を卒業して職業の世界に入っていく者は、全国で約六十万人といわれている。これらの人々が未来に思いをこめて学窓を巣立ち就職していく。本校でも、今、高校生活を送っている者にも、いずれはそのようなときがくる。ある者は一年先、また、進学を考えている者も数年先には確実にそのときがやってくる。しかし、今の生徒は真剣に職業を選択したり、就職したりすることは、まだまだ遠い先の話と思っている者が多い。経済成長時代の思いがなかなか消え去らず、実業高校に入ったのだから何とかなると、親も子も安心しきっている。

私は、生徒の就職、進学関係の仕事につくのは三度目であるが、これからが大変なのではないかと思う。

最初は、昭和三十年後半、技術革新と若年労働力の不足から、技術者養成として工業高校が全国に新設されることになり、本校も農工高校から工業高校に独立した。そのとき機械科職員として、また、就職担当として就職指導の仕事をした。地元には高卒の技術者を採用する企業はほとんどなく、関東地区の企業開拓に夏休みを利用して慣れない都会を飛び回った。地区名、学校名を知ってもらうだけでも大変であった。採用試験を実施する企業も少なく、実施予定のところでも指定校のみという企業が多く、新設校なので受けることができないこともあった。そこを何とかお願いして受験に参加させてもらった。ある有名企業では、採用は別として受けるだけならということで受験させた。その結果、成績は上位で合格、わざわざ人事担当者から電話連絡があったりした。次年度からは、早々に受験通知が送付してくるようになった。このような例は他にも数例あり生徒の質も認められ、指定校となって着実に歩み続け現在に至っている。

次には、中通りの工業高校でのことであるが、昭和四十年後半の三カ年間機械科に所属し三年生の就職指導に関係した。七月に入ると、毎日早朝より来校する企業の担当者、昼休みをねらってくる係員、また、放課後じっくりねばる人事課長と、さまざまな来客に会う。一人の生徒に十数社からの求人があり、いわゆる金の卵といわれた時期、五体満足であれば多少の能力の差などは問題にしないといった大企業での採用が多くなった。しかし、以前は技術者として採用したが、この頃から技能者となる。技術革新と経済成長で若い力が必要となり種々の好条件を生んだ世の中であった。

そして、現在、昭和五十年後半、古巣に戻りへ進路指導を担当して今年で三年になる。研修会、協議会、講演会等、いろいろな会合に参加して、進路指導は、校内の他の校務分掌との連携学年、担任との連携、また、父母との連携を密にして、生徒が望ましい職業観や職場でのよりよい適応をはかるために、的確な進路情報の提供や、心構えについて指導助言を行ない、必要に応じて個別面談を実施すべきであることを痛切に感じ、実施している。

高校進学率は、本県でも九十三%。本校では全入に等しい。工業人として必要な要素をもたない生徒が多く、それぞれの専門学科に興味があって入学したのか、ただ工業高校に入れば就職に有利だと親が進めたから、また、能力が合致していると中学校の先生が言ったから、など自ら十分に考えないで入学する生徒が最近非常に多くなってきている。

昨年あたりから、産業界の現状は変わりつつある。安定成長といわれてから久しく、高卒者採用数も激減している。一方各家庭をみると子供が少なく地元企業希望者が増している。地元では企業の絶対数不足で折角専門的な学習をしたことが生かされない場合が多くあるのは残念でならない。できることなら関東方面の企業で、思う存分自分の力を発揮してほしいと願うものである。

今年も、就職戦線は厳しいようである。昨年度は就職先がきまらず卒業した者は本校では皆無であった。来春の卒業生も全員笑顔で巣立つことができるよう進路指導課員を中心に全職員が一丸となり、指導にあたっていきたいと思っている。

(福島県立小高工業高等学校教諭)

 

 

 


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