教育福島0083号(1983年(S58)08月)-053page

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こぼればなし

あとがきにかえて

 

雨雲の重苦しい雰囲気を払拭するかのように、直線的な光がさしこんでくる。

 

夏独特の力強い色彩を背景にして、「ジー、ジー、チッ、チッ」と弱い音色がリズムをとっている。梅雨あけを待っていたかのように、小型のにいにい蝉が遠慮がちに鳴いている音だ。夏の日を鳴く蝉は、騒がしい昆虫の声楽家である。一斉の鳴き声は、あたかもにわか雨。蝉時雨とはよくいったものだ。蝉は、腹部の部屋に特設された薄い鼓膜を強い筋肉力で振動させて鳴く。鳴くのは雄で、雌を唖蝉といったりする。

春に出るのが春蝉。緑が少なくなった昨今、あまり耳にできないのが残念だ。一般的に蝉といえば油蝉。大型の強い声が、「ジー、ジー」と油を揚げるように鳴く。みんみん蝉は、深山蝉。「ミーン、ミーン」と高い声が売りものである。東北では珍らしいが、関西で多いのが熊蝉。「シャー、シャー」とやスリをかけたように、いけしゃあしゃあと鳴く。気障りな蝉とでもいおうか。東北で普通聞ける蝉は、蝦夷蝉だが、七月中旬の短期間、幸運であれば姫春蝉の音が楽しめる。数が少ないので天然記念物に指定されているほどである。

蝉は夏。夏は汗しての夕餉どきに、「カナ、カナ、カナ、カナ」と涼しい声を耳にするのは、実に印象的で、疲れもひととき忘れてしまうほど心地よい。これは、日暮れ夜明けの蜩のなぐさめの声である。子供のころは、かなかな蝉などといったものだ。蝉の声も、「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、オーシーツクツク、オーシーツクツク」を耳にするころは、秋風が立ちこめる季節となる。つくつく法師とは、その秋涼を連想させる鳴き声をとったものであろうか。

横井也有は、「つくつく法師と云ふ蝉は、つくし恋しと云ふなり。筑紫の人の旅に死して、この物になりたりと、世の諺に云へりけりし」(鶉衣・百虫譜)と述べている。実際今でも近江地方では、 「つくしこひし(筑紫恋し)」と呼んでいるそうだ。

 

ところで、蝉は成虫としての生命は数日の短命だが、幼虫から蛹までの過程が長いことでも有名。油蝉で七年といわれ、蛹が地上に姿を見せて背より割れて皮をぬぐ。夏休みの昆虫採集に蝉をとりに行き、蝉はとれずにこの脱殻を見つけてよろこんだものだ。この蝉の殻を蛻という。いわゆる蛻の殻である。ところが、昔からむなしいことやはかないことのたとえに、「うつせみ」と表現する。「万葉集」などで、これに空蝉、虚蝉をあてたので、蝉のぬけがらを連想させるが、もともと蝉とは関係がない。 「うつせみ」は「うつしおみ」の転じたもの。この世に生きている人、また現世、人の世である。枕詞となって、世・人・命にかかることから、禅における無常感とあいまって、人の命のはかなさ、むなしさの意味をもつようになった。したがって、「うつせみ」は、「もぬけのから」ではありえない。

 

蝉の羽根は薄い。連想ゲームではないが、薄いものは夏衣。「蝉の声聞けばかなしな夏衣うすくや人のならむと思へば」(紀友則「古今集」巻十四恋・七一五)となると、人の心が薄情になることを歎いたものである。ともすれば、乾燥しきったようないまのこの人のつながりの中で、じっくり味わってみたいような気がするが、どうであろうか。

 

表通りの小型トラックの拡声器から、「きんぎょお、え、きんぎょ、きんぎょお」と響いてくる。その余韻が、照りかえしの息苦しい陽ざしに反射して、四方にとびちる。

いま、水玉模様が、目に涼しい季節を迎えた。

(ひ)

 

 

 


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