教育福島0084号(1983年(S58)09月)-020page
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随想
この道に思う
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久保田 亮次
中体連相双大会が終わりスポーツシーズンも一段落した。学習指導、部活動の指導、生徒指導主事と多忙な教育活動の中で、何かが一区切りついたとき、思いがけなくふっと脳裏に浮かび上がってくるのが、かつての教え子の姿である。どんな仕事をしているだろうか、元気にやっているだろうかと。
郡大会も間近に迫ったある晩、中学教師として担任した最初の卒業生のA君から「先生、Y君が今度へ郷里で商売をはじめ、同級生で開店祝いをしているので来ていただけませんか」と久し振りの誘いの電話があった。
Y君の進路指導については特別の思い出がある。大雪の降った晩、二キロメートルの雪道を喘ぎながら家庭訪問をしたこともあった。定時制高校を卒業後、千葉県に就職したと聞いてから久しい。「三十歳を越えて商売を始めるとは…。成功してくれ」と願いつつ、懐しく、また、不安な気持ちで早速出向いてみた。
二、三十名の同級生が歓談の真最中であった。Y君は、さすが店の主人らしく、お客へかいがいしく振る舞っていた。彼は、旧担任の来店にさすがに.嬉しそうで、今までの筆舌に尽しがたい苦労が報われたためか、「先生、見てくれ」と言わんばかり、商売人らしい物腰の中にも毅然とした若者らしい態度で、実にたのもしかった。急にあの卒業直前の彼の姿が、まざまざとよみがえった。
Y君は、スポーツマンで、野球部の選手として中体連大会でたいへん活躍した一人であった。彼は農家の二男で将来は上京して就職し、商売を成功さぜて身を立てるのだと言っていた。
十月ころ、就職希望者は、もう、その手続きをとりつつあった。彼からはまだはっきりした申し出がない。彼の意志を確かめると、家族で話し合った結果、ぜひ高校に進学したいと申し訳なさそうに進路の変更を伝えてきた。三年生になってから、勉強らしい勉強はほとんどやっておらず、自信もなく、困惑しきっているようすであった。残りの期間を本気でやるから援助してほしいとの申し出に、昼休みを指導援助の時間にあてた。それからは、都合のつく限り宿直室に呼んで勉強会を開始した。念願の丁高校定時制に合格できた。彼は働きながら高校を終えたと聞いていた。
今、振返って、あの懐しい私自身の積極性と行動力、それは、私の若さのせいだつたかもしれない。
しかし、私には、当時の旧大野中時代の職場の雰囲気が、そうさせていたように思われてならない。我々、新米教師に対して、たいへん家族的で明るかった。
夏休みの一日、木戸川でとった鮎を河原で車座になってほほばった職員クラブ、校舎営繕の係の先生の指導で「O土建」と呼びつつ和気あいあいの中で張り切って行った職員作業、御苦労であったと教頭先生自らの手づくりの焼そばの味、また、浜通りにめずらしく大雪が降った朝、有効に生かそうと校長、教頭が自ら学帽をかぶっておどけてみせ、生徒とぶつけ合った全校雪合戦のひとときなどなど。
一方、上司には仕事の面での疎漏は厳しく叱責され、校務分掌ではアイデアを生かぜと、しばしば激励された。太っ腹で公私ともに我々を鍛えてくださった学年主任の先生の印象も深い。
こんな雰囲気の中で、教育理論もさだかでない新米教師が、三分の一を超える就職生徒に向って「新しい道に立ち向って、三日、三カ月、三年が辛抱のしどころ」などと、若さでぶっていたのも、遠慮のいらない職場の雰囲気のおかげであったろう。Y君も真剣に私の下手な説教を聞いていた一人であった。
校舎の片隅から拾った小石を掛け言葉にして「意志は堅く、心は広く、常に明るく」という手書きの贈り物のハンカチを、A君は、「今も大事に壁に張っている。石はその下に飾ってあるよ」と言われ、教師としての生きがいをじーんと感じたことであった。
A君も今は、五人の父親で、双葉地方の酪農界のリーダーとして活躍している。
彼らとの出会いは、日本が東京オリンピックの準備にわいていた昭和三十八年であった。
(富岡町立富岡第二中学校教諭)
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