教育福島0084号(1983年(S58)09月)-021page
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随想
自戒
渡辺 直信
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先ごろ、学校へいつもの金物屋が顔を出し、職員室の片隅で店開きをした。そばでひやかしているうち、鋏の使い方の話になり、「先生、紙を切ってみな」ということになった。さっそく切ってみせたところ「その切り方ではダメだ」といわれ、「鋏は片方を動かないように固定し、一方の刃だけを動かして切るのがいちばんの秘決なんだ」と教えられた。それは両方同時に動かして切ると、切り口も不揃いになり、刃自体も痛む理由らしい。「さすがにその道の専門家はちがうわい」と感心させられた。
鋏はよく使い方次第といわれるが、教育もまた然りであろう。教師の指導理念、指導姿勢などが生徒に敏感に伝わり影響を与えることも多いように思われる。ある面では教師は生徒の鑑でもあり、本当にこわいと思うことがある。
少年による非行が、戦後第三のピークを迎えたといわれて久しい。時代や社会の変化を背景に、生徒の問題行動はますます多様化し、その対策や指導はいつも後手にまわりがちで悩みもつきない。なかなかひとりで問題の解決にあたろうとしても容易なことではない。これまでにも生徒指導上困ったときなど、先輩や上司のアドバイスをうけ指導をしてきたが、やはり、その生徒にかかわりをもつ同僚教師の理解や協力(共通理解)が得られなければ、なかなか指導の効果が期待できるものではない。ひと口に共通理解といっても、「云うは易く、行うは難し」で難しい問題でもある。しかし、教員個々人が、それぞれの考えで指導にあたれば、それこそ指導の不徹底をまねき、結果としていろいろな問題が生じてこよう。
なにか問題が起こると、よく「それは社会が悪い……」「いや、家庭に問題が……」とか「学校教育に……」などと云々されることもあるが、それぞれ責任の転稼をしてもはじまらない。学校教育の中で生徒たちになにをなしてやるべきかをよく考え、しっかりした指導理念をもって指導にあたっていくことがより大切であろう。
よく「うるさくて授業にならない」とか「生徒がいまひとつ授業にのってこない」などといいつつ、案外そのまま授業をすすめていることも少なくない。授業の進度ばかりに気をとられ、さらには生徒の習熟度合をよく見極めず、一方的に授業を展開していたという失敗も数多くあった。このような状態で、また授業を理解できるはずもなく、また、授業がおもしろいはずもない。生徒指導にしても、学習指導にしても、このようなことの繰り返しが、生徒自身にいろいろな意味で影響を与え、それが学校生活への不適応を招き非行や退学へ追いやっているとしたらそれこそ、その責任は重大といわなければならない。十分心したいものである。
めまぐるしく変化する社会の中で生活している生徒たちに対し、すくなくとも、教育のプロフェッショナルとしてす早く対応できるよう、社会情勢の分析や現代に生きている生徒たちの行動様式や心情を的確にとらえるべき努力も怠ってはならないだろう。
教師も生徒も一個の人間である。お互いにひとりの人間としてその人格を認め合い、語り合いなどによる共感を通して指導をすすめていけば道も開けるのではなかろうか。
よく同級会に出席したときなど、その話題の中心になるのは、なんといっても、学校時代の先生や友人、部活動といったものにつきるようである。その懐旧談の中でよく耳にすることは、学校時代の教師の姿を実にクールな眼でとらえていることである。教師の人間性、指導の方法、はてはその実力は……等々、実に客観的によく見ていることには驚かされることが多い。我々はたえず生徒を評価しているが、生徒は教師を選べず、また、評価もできない。
しかし、その実、常に逆評価されていることも忘れてはならないだろう。誰からも何もいわれず長年過すと、ともするとひとりよがりに陥りやすい。生徒を常に評価している我々自身も、日々自己評価を怠らず自戒したいものである。
(福島県立矢吹高等学校教諭)
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