教育福島0085号(1983年(S58)10月)-036page
随想
小さな言葉
渡部政代
せんぜ たいへんだ
ゆうべのあめで
あさがお たおっちゃ
みんなのあさがお
よこむいて たおっちえる
はやく おこしてくれって
くるしそうに くるしそうに
たおっちえる
昨夜の強い風雨に倒された朝顔を朝早く来て見つけたA児の悲痛な叫び、朝顔を思う子供の言葉が、そのまま口頭詩になって黒板いっぱいに広がる。文を書くことをまだ知らない子供たちの無心につぶやく言葉の中に、はっとさせられる生きた言葉がある。
「せんせい、きのう、ぼくうちに、あかちゃんうまれたの」と休み時間に、私の耳もとに顔を寄せて、K児がささやいた。
「えっ。Kくん、おめでとう。弟だったの。妹だったの」とK児の肩を揺すってせきたてる。
「妹でした」との紅潮した頬に、兄になった少年の初々しさがあふれている。
ぼくうちに、あかちゃんがうまれました。あんなにおおきかったおかあさんのおなかから、ちいさいかわいいおんなのこがうまれてきました。
ぼくは、びょういんにいって、あかちゃんがかわいいから、がらすのところがら、いつまでもあかちゃんのかおをみていました。
あかちゃんに、さきことなまえがつきました。ぼくは、このなまえがきにいりました。だって、ちゅうりっぷがさく、のさきこだし、あさがおがさく、のさきこだし、あじさいがさく、のさきこなんだも。
さきことなまえがついたら、あかちゃんは、まえよりもっとかわいくなりました。ぼくがじっとみていたら、ちいきなてをすこしうごかしました。さきこがてでなにかをつかめるようになったら、ぼくは、いろんなはなをいっぱいとってきて、さきこのてにもたせてやるぞ、とおもいました。
私は、文を書けるようになったK児のこの心の細やかな動きに、思わず胸を打たれる。心の内に温かいものをもち、文章にいつも心地よい緊張が保たれていて、自分の感情をきちんと整理できる子なのである。兄になる自分の立場がはっきりわかっての、まっすぐであざやかな心なのだ。まさに人間が生きている小さな言葉。この小さな言葉をささえる感性。それらをたぐり寄せ、あるいは静かに、波紋のように、他の子供たちの中に広げていくところに、教師の仕事がある。
せんせいは、きょう、しろいはんそでをきていました。しろいふくとしろいずぼん、あと、しろいそっくすとしろいくつをはいています。
にんげんのからだのなかには、はあとのかたちをしたごころがあるとおもうんだけど、せんせいは、きっとこころのなかで、べらんだのあさがおのはちにしろいあさがおさんがさくといいなと、おもっているとおもいます。
M子の鋭い洞察である。だれもいない教室で、子供たちの書いた文章に目を通しながら、樹冠を流れる涼風を眺める時、小さな平和が私の体内に息づく。
やっと文章を書けるようになった子供たちのたどたどしい文字の間に、こうした細やかな心のひだを知るにつけ小さな生命の重みを今さらのように感じるのである。入学してまだ四、五か月だというのに、一語の背後に数十語か感じられるような言葉を刻むことがある。小さなからだで精いっぱい言葉を覚えようとしている子供たちに、穏やかに、的確に、受け答えしてやっているのだろうか。なにげなく口を開く自分の言葉が、彼らの感性の豊かさ、みずみずしさを奪ってはいないだろうか。子供たちの獲得していく言葉の質は、彼らの人格の陶冶と深いかかわりをもつことを考えれば、子供たちに働きかける言葉一つにも、教師の心を宿したいものである。
今、この子らといる時をだいじなものとして受けとめ、日々の喧燥の中に点滅する言葉への愛と畏れを持ち続けながら、日本語の重みと美しさを伝えることのできる教師になりたいと思っている。
(会津若松市立一箕小学校教諭)