教育福島0085号(1983年(S58)10月)-037page

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随想

 

二十歳の同級会

 

菊池千代子

 

たのである。そして、驚いている父をしり目にさっさと私の車に乗りこんだ。

 

八月十五日、小雨のちらつく中、私はM子の家の玄関に立った。「M子はだれにも会いませんよ。中学校のころとちっとも変わっていないのですよ」と繰り返し迷惑そうに父親は言った。その言葉に気づかないふりをして、奥に向かって一段と声をはりあげ、「今日は何の日だか知っているでしょう。一緒に行こうよ」と呼びかけた。するとM子がぬっと顔を出し、にっと笑ったのである。そして、驚いている父をしり目にさっさと私の車に乗りこんだ。

重度の緘黙症であった彼女は、中学生時代、電話を通して担任とわずかに話す以外、一言も声にすることなく三牢間を過ごした生徒である。

この日、彼女は成人式を迎え、その後行われた同級会に私と一緒に出席した。次々と声をかけられ、言葉の代わりに乙女らしいやさしい表情でこたえている彼女は、普通の女の子だりた。

夕方送り届けた玄関先で、「こんなみすぼらしい格好で出してやって、恥ずかしいったらありゃしない」という母親の言葉が返ってきた。一瞬、針で胸を刺されたような痛みを感じた。

 

「お久しぶりです。でもおれ、本当は先生に会うのが恐がったんです。でも来て良かったです。おれ今、K食堂の飲料課のチーフなんです。部下が五人もいて責任があるから、いいかげんなことできません。もう、みんなに笑われたくないからがんばっています」大きな目を輝かぜ、力強く握った手から熱い心が伝わってくる。

K男、高校卒業を目前に退学。すぐ東京へ就職した生徒である。高校受験を間近に控えた三者懇談で、就職を勧めた私に母親はこう言った。 「こんな子供だからこそ、せめてあと三年間、親元から高校へ通わせてやりたいのです。その間に、少しは大人になるでしょう」と。母の涙を見た私には、その時返す言葉がなかったのを覚えている。

Y男はA新聞の奨学生となり、大学に進学した。新聞店からの給料で、学費や生活のすべてをまかなっている。朝二時半起床、東京の街の三百軒に新聞を配る毎日である。将来は体育の教師になりたいと夢を語る。配達は朝のトレーニングですと笑う。別れ際に、「父は高三の時蒸発しました。でも今の僕にとって、そのことは全くマイナスではありません」とさらりと言った。思わず見なおした彼の姿が一段と大きく見え、圧倒されるようでした。

「今日は坊主たちを置いてきました。先生、また見に来てください。かわいいんですよ」と目を細め幼さの残る表情で話すN子は二児の母である。子供を持って初めてあのころの母ちゃんの気持ちがわかったとしみじみ語る。中学生活のレールからはみ出しそうになりながら、周囲の人々の愛情で立ちなおった。幸せな姿に胸をなで下ろす。

卒業して五年、二十歳の彼らは、それぞれに自分の道を歩み始めた。その成長した一人一人の姿を思い描く時、なぜか親の姿がダブルイメージとなって現れてくる。また、「あの時は」と思い出が語られる時、ビデオを見るかのように当時をあざやかに思い出す。そしてなつかしさと同時に、あれで良かったのかと自分の指導のあり方に思いが及ぶ。

ここに至るまでの子供の成長には、親や教師の考え方・生き方が善かれ悪しかれ、大きな影響を与え、時には生き方を決定づけてしまうように思われる。

N子がもし、他の家に生まれ育っていたら、果たして現在の彼女の姿はあっただろうか。当然のことながら、子は親を選ぶことができない。同様に、生徒は教師を選ぶことができない。仮に今、全校生を一堂に集め、「みんな自分の好きな先生の後ろに並びなざい」と言ったとしたら、果たして何人の生徒が自分を信頼してついてくるだろうか。さらに五年後、卒業時に残したタイムカプセルを囲んでの同級会が待っている。その時、みんなはどんな顔を見せてくれるだろうか。楽しみである。自分もまた、胸をはって姿を見せられる教師でありたいと思う。

 

×  ×  ×  ×

 

雨もやみ、N子を送り届けた帰り道喜びと自省の念が奇妙に入り混じり、いつまでも心が高ぶっていた。

(西郷村立西郷第二中学校教諭)

 

 

 


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