教育福島0085号(1983年(S58)10月)-038page
随想
一吟是正気
円谷敏雄
マイコンに代表される現在の生産構造は、極度に人間性をゆがめてきているのではないだろうか。「人間性とは」の論議は別にして、軽い意味での「人間らしさ」と考えるならば、人間が利欲や名誉から離れて、純粋に「好きなこと」に没頭できるのは、趣味以外にないように思われてならない。趣味に生きている人を見ていると、実に生き生きとして活力に溢れ、心の豊かさと、うるおいを強く感ずるのである。
私も今から十年前、すすめられるままに、吟詠同好会に入る機会を得た。実は戦時中、学校で招へいした人の詩吟を聞いて、非常な感動を覚え、いつの日か吟詠をやってみたいと思ったことがあった。そんなことが心の奥にあったからか、何の抵抗もなく入会することができた。流派は神道流で、郡山市に本部がある。会員は七百名を越えるようであるが、所属する須賀川会場は、三十名ほどである。市の公民館を会場として、毎週木曜日の夜を、練習日と定めている。始めのうちは恥かしさが先に立って、冷や汗をかきながらの練習であったが、だんだん雰囲気にも慣れ、節調を覚えるに従って自信がつき、練習日が待遠しくさえなった。「詩は人の心を表し、味わい吟ずることによって、人間性を豊かにする」と教えられ、作者の心、詩情を汲みとることを第一と心得て練習している。
自転車での通勤途中、夕食後の一とき、入浴時の風呂場等、心のおもむくままに口ずさんでいるが、中でも風呂場は反響がよく、湿りがあるため、上手にうたわれるような気がして、練習には好適なように思われる。しかし、品位を尊ぶ吟道にあっては、邪道だとお叱りを受けるかも知れない。節調練習の基本として、最初に習うのが、乃木希典の金州城下の作「山川草木転た荒涼」の句である。この詩は戦争の悲惨さを如実にうたいあげており、戦争を体験した一人として、感無量なものがある。詩吟は一に品位、二に気魄、三に節調、四に声といわれるように、美声だから、節回しが上手だからというだけでは、詩情をうたうことにはならないといわれる。そう考えると、心の錬成が何よりも大切であることを痛感する。
自然を詠んだ杜牧の「江南の春」、秋の月をこよなく愛した真山民の「山中の月」、そして李白の「蛾眉山月の歌」は吟ずるほどに味わいが深まってくる。幕末の志士が、憂国の心情を訴えた詩にも感銘深いものがある。「二十六年夢の如く過ぐ」とうたう橋本左内の「獄中の作」、また吉田松陰が刑場に臨むときの辞世の句は、ひしひしと殉国の心情が伝わってくる思いである。一方、勧学をうたったものには、「少年老易く学成り難し」の第一句から成る朱烹の「偶成」同じく朱黒の「謂う勿れ今日学ばずして来日ありと」の句は字余りの句であるが、親しみ深く教訓そのものとして吟じている。また「男児志を立てて郷関を出ず」とうたった村松文三(以前は釈月性作と言われた)の詩も当時の人たちの心情と決意をうかがうことができる。
ともあれこうして入会以来十年が過ぎようとしているが、これらの詩を何とか、生徒に滲透させ、ゆくゆくはクラブ活動や同好会に定着させたいものと考えている。それには多少時間がかかるかも知れないが、自分自身まづ一日一吟一詩百練「一吟是正気」をモットーに精進したいと、覚悟を新にしている昨今である。現在の吟詠界は全国で一千を数える流派があると聞いているが、節調こそ違い、詩情をうたうことには変わりがない。その意味から須賀川市では、市内五つの流派が大同団結して、須賀川吟詠同好会を公民館の中につくっている。会員は現在百三十名を数え、毎年春、秋の二回発表会を催し、盛会を極めている。
朗吟讃歌 渡辺郷岳作
学ばずして既に通ず聖賢の道
修めずして己に備う節義の心
未だ見ずして万里の名勝に遊び
未だ聞かずして古今の史実を語る
朗々吟ずる処清風起り
一篇の錦繍能く賜を断つ
超忽変幻 緩急を恣にし
或いは潜涙を催し或いは憤りを発す
君に薦む須らく知るべし朗吟の妙
没我の一吟是正気
(福島県立岩瀬農業高等学校教諭)