教育福島0085号(1983年(S58)10月)-057page

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教育福島0085号(1983年(S58)10月)-057page


こぼればなし

 

月を愛でる風流は、古来中国の風習であり、そこでは観月の宴が張られ、詩歌が詠じられたという。この仲秋(中秋)十五夜の月を観賞する風狂は、寛平、延喜のわが国上流社会の好みに歓迎されて今日に至った。ダンゴやススキなどを供えて月を祭る行事は、農耕関係者の切なる祈りとあいまって歴史のなかでくりかえされてきた。そしてまた、人の知恵は、月に時刻を刻ませ、その時間との二人三脚で、人は生活を営んできた。

 

月の出入時刻は、月の中心が地平線に接触して見える瞬間をいう。その時間は、平均すると毎日約五十分程度遅れ、月の「望」と「朔」をもたらす。「望」の時には、太陽と月とが地球から見て反対側に位置するので「満月」となり、「朔」はその逆の状態で、したがって、月はほとんど見えない。この月がこもって見えないことを「月籠り」といって、十二月の月籠りを「大月籠り」といったりする。月は欠けてふたたびふくらむ。新しい月立ちである。人はまた「月立ち」を「つきたち」「ついたち」と変化させた。月のはじめの「朔(一日)」である。

 

仲秋(中秋)というのは、陰暦八月の異称であり、特に八月十五日をさしていう。古くは、「ちゅうじゅう」、今では「ちゅうしゅう」と一般的に発音する。また、この日を、「八月十五日、九月十三日は婁宿なり。この宿、清明なるゆゑに月を翫ぶに良夜とす」(徒然草)からとって「良夜」。この夜の月を芋名月・望月・満月・明月と呼んだりする。「十五夜」「十三夜」で思いついたが、「名月」というのは、室町期から用いられた語で、陰暦八月十五日と九月十三日の月をさし、「明月」は、晴れ渡った夜空に輝く月で、美しい月の総称として引用する例が多いが、手近かな辞書の説明にも、「明月=陰歴十五夜の月。満月、望月」とあるから、別に気にせずに使ってもいいようなものだが、ただ「名月は八月十五日一夜也。明月は四季に通ず」(「青根が峯」・許六)との断言もある。

 

今年の十五夜は、今日九月二十一日。月の出十七時三十二分、月の入三時五十九分である。もっとも、正確に「望」の状態になるのは、明日二十二日の十五時三十七分であるという。この夜、空が曇って月が見えないと「無月」、雨が降ると「雨月」という。ちょうど今日のような塩梅をいうのであろうか。昨日が「待宵」で明日が「十六夜」。十五夜より一日遅れて出るので、「ためらいの月」「いざよう月」ともいう。「いさよふ」とは、たゆたいためらう意である。なんと「味」のある表現ではないか。月にかかわる生活の知恵は、初月・二日月・三日月・立待月・居待月・臥待月・更待月・後の月などなど、枚挙にいとまがないほどである。

 

科学は人の営みに「数の正確」さをもたらしたが、その一方で、「夢」を奪ってしまった。

子供の口から「月の世界のウサギのもちつき」の話が聞かれなくなった今、ある種の寂しさを禁じ得ないのである。(ひ)

 

あとがきにかえて

 

あとがきにかえて

 

 

 


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