教育福島0086号(1983年(S58)11月)-025page
随想
表現する喜び
志賀雄一
母 玲子さん、あなたにだけ、お話しますけど、あの子、骨肉腫なんです。
玲子 えっ、そんな。
母 あと半年の命なんです。手術の成功率が低いんだそうです。
玲子 半年。半年でなにができるというのですか。
これは、文化祭に上演するための創作劇「友の愛よ限りなく」の一場面である。演劇クラブでいつも頭を痛めるのは、人数とか、男女の数とか、上演時間などの関係で、適当な作品がみつからないことである。
生徒達から、今年の文化祭には自分たちのオリジナル作品を上演したいという話がもち上がった。どんな内容にするか早速話し合いがもたれた。クラブ活動の時間は週一時間、とってもそんな時間ではまにあわない。放課後の部活動のはじまる前の二、三十分くらいしか集まる時間がとれない。なかには、学活の長いクラスなどもあり、全員が集まれることは少ない。
身近なテーマにすることになったが話し合いは難航した。こんな時、私は話題を提供した。
それは、数年前、娘が腎炎で、郡山市のO病院に入院した時に、隣りのベッドにいたT子ちゃんが、骨肉腫のため左大腿部を切断し、車椅子での生活をしていた。小学四年生の彼女にとっては、それだけでも残酷であった。コバルト照射のため髪がほとんどぬけ、カツラをつけていた。それから半年後両親の懸命の看病のかいもなく、家族に見守られながら息をひきとった、という事実を話してやった。
命の尊さ、母親や家族の心づかいや愛情、級友との友情などをテーマとすることになった。そして創作活動は、とんとん拍手に進み四十分物の作品が完成した。新人戦終了後の放課後は、毎日が稽古におわれた。土、日は、舞台装置づくりや効果の録音、衣裳の打ち合わせで終ってしまう。
いよいよ上演の日がやってきた。緊張の瞬間である。母親役のM子は涙を流して演じた。友達役のA子もほんとうに泣いた。大きな拍手の中で幕がおりたのである。
この感動は、一つのものを演じるために、長いきびしい稽古をともにしてきた者だけしか味わえない。
年度末人事で現在の学校に転勤になった四月、A子からの手紙を受けとった。それには、
「先生が転任されてから、演劇クラブがなくなり残念です。あの時の感動が忘れられませんので、高校に入ったら、ぜったい演劇をやりたいと思います。私は、演劇を通して、なにか自分が変わってきたように思います。物の見方考え方が深くなり、読書をしていても、作品の人物の気持ちが伝わってきて、しらずしらずのうちに、手足を動かしてしまうのです。春休みに、自分で戯曲を書いてみました。ぜひ読んでください」と書かれて、原稿用紙十枚ほどの作品が同封されていた。
いま、中学校では中体連が盛んで、部活動を通して、忍耐や友情.つくりが行なわれている。一方、生徒達に、詩俳句、演劇、音楽などの文化活動を通して表現する喜びも体験させてやりたいものである。
県中高校演劇発表大会のパンフレットを見たら、そこにA子の名が見つかった。別の高校の欄にも教え子の名があった。今でも高校で演劇活動を続けている子供達を思うと私自身が強く感動を覚えるのである。
(常葉町立常葉中学校教諭)
ほんとうに泣いた創作劇