教育福島0086号(1983年(S58)11月)-026page
随想
三つの「気」
引地延男
うち鳴らす
捕手の手音に 全盲の
投手はいまや 球投げんとす
これは前任校である盲学校に赴任して間もなく、盲人野球を初めて観戦したときの感想である。パンパンと捕手が手をたたく、投手はその音のする方向をじっと全身で確めるようにしてから球を投げる動作に入る。その一途な姿に強く心を打たれた。
なにごとでも一心に打ちこんでいる姿は美しいものである。高校生が教室でまた部活動の場で真剣に取り組んでいる姿はなんともいえないさわやかさと美しさを感じさせる。
盲学校の生徒が障害にもめげず大きな球を投げ、打ち、そして走る姿に、いいようのないさわやかさを感じた。
毎年のことながら甲子園では全国高校野球の試合が行われる。どのチームも精一杯今までの練習の成果を出しきろうと全力で打ちこんでいる様子が、これまた世の人々の感動を呼ぶのである。
さて、私が障害をもつ生徒たちの教育に取り組むことになったとき、同じ立場の人たちと、話し合う機会があった。
その折、ある一人が「障害児教育にあたっては、一つやる気、二つに元気、三つは呑気、この三つの気だよ」と話していた。」味わいのある言葉なので、その後もことある度に思い出して私なりに解釈し、教育の場での座右の銘としてきた。それから三年経過し、また普通高校に勤務することになった。そして先の三つの「気」をふと思い出したが、これは単に障害児教育の場だけではなくて、ほかの場合にもあてはまるのでないかと思うようになった。
何といってもやる気がなければどうにもならない。教師である我々は、生徒たちにいかにしてやる気をおこさせるか、これがある程度成功すれば、教育の仕事は大半その目的が達成されたといっても過言ではあるまい。最近はことにやる気のない無表情、無感動の生徒が増えているのが目立ってならない。我々教師のやる気を生徒たちに伝え、意欲をもたせる努力と工夫が急務とされる。
次に元気について、これは健康と明朗のことであろう。教師は生徒に元気よく接し、生気のある人間を育てることと考えている。ともすれば悲観的に物事を判断しがちであるが、元気を出して取り組むよう励ましていきたい。
三つ目の呑気だが、これは単にのんびりとという意味ではなくて焦らずにじっくりと取り組むこと。教育の効果は時を要することが多く、喜んだり落胆したりのくり返しである。多少楽天的に構えて将来を展望せよという意味か。そして集中とくつろぎのリズムをうまく教育の場に生かす工夫が大事だといっているように思う。
話は変わるが、私は趣味として、家庭菜園づくりを楽しんでいる。年間約二十余種の野菜を毎年同じように作っているのだが、年ごとにできばえが違う。これは気候条件が毎年同じでないのがその理由の第一だが、さらに耕やし方ひとつをとってみても、十分に深く鍬を入れたときは必らずできが良く反対にこのぐらいならよかろうと手加減した時は、よいものはできない。結果があまりにも歴然と出てしまうので自然の摂理は何ときびしいものかと感心してしまう。教育の仕事にも相通ずるものがあるように思えてならない。
先日、定通制の生徒の生活体験発表会をきく機会を得た。さすが発表者に選ばれた生徒だけに、その内容はそれぞれ感動をよぶものばかりであった。
自分の目標をもち、意欲的に取り組み、困難にもめげず明るく未来に希望をつなでいる生徒たちの言葉は、力強く心にひびくものがあった。
教師生活三十余年を経て、教育の多様化と荒廃が、ますます大きな社会問題になりつつあるとき、今こそこの三つの「気」をもってのり切らなければと私自身にいいきかせているこのごろである。
(福島県立保原高等学校教頭)