教育福島0086号(1983年(S58)11月)-036page

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「読書論」の歴史・素描(2)

 

県立図書館主任司書

 

佐藤美男

 

図書館コーナー

 

図書館コーナー

 

前回は戦前の読書論の特色について述べた。即ち教養主義的読書論≠ニ称されるもので、三木清、河合栄治郎の両著がそれを代表するものであること、そして、今日においても充分傾聴に価する豊富な内容を持つのだが、やはりそこにはエリート学生を主対象とした教養主義の限界も濃厚に顕われていることを指摘した。

今回は、戦中・戦後、今日までの代表的読書論を引き続き概観してみることにしよう。

○田中菊雄著『現代読書法』(柁谷書房

再版、三笠書房、昭和十七年)

当時、最高の水準を示すものとの評価を受けた、いわゆるハウ・ツー型読書論の原型である。目次の一部を抜萃すると、例えば「読書は何のためにするか/書籍の選択/読書の方法/図書館の利用法/書籍購入法/辞書類の利用法等々…」といった具合に、読書論に関わるありとあらゆる要素を取り上げた読書百科辞典≠フ如き著書である。彼によれば、読書の目的は、(一)智を増すため、(二)休養、設楽のため、(三)我々の思索と体験を補うため、の三点に要約される。そして智は、読書によって増強されるが、その究極の目的は国家有用の材になることにある。とする読書報国≠フ考えが説かれている。このあたりに時代性を感じさせるが、ハウ・ツー的側面としての知的生産の方法≠論じた件は、今日でも充分有用であろう。巻末の、主要読書論のリストも資料として役に立つ。

さて、戦後になると、当然のことながら、戦前の教養主義への反省が目立っようになる。そしてその批判に対する新たな理念としての、プラグマティズム、快楽主義的読書論が導入される。

○清水幾太郎著『古典』(筑摩書房)

○松浦美太郎『読書の愉しみ』(同右)

などは、教養主義的読書論の高踏性に対する鋭い批判であり、そこでは書物=道具§_、読書=愉楽論が説かれる。そしてそれは、戦後の教育の大衆化に対応したものでもあった。

○加藤周一著『頭の回転をよくする読書術』 (光文社、昭和三十七年)は、戦後読書論がベストセラーとなった最初の例であるが、それは前二著の傾向をさらにおし進めて、大衆社会型読書のスタンダードを示すものである。また、ともかく気軽に読書を≠ニいう呼びかけと同時に、アメリカ式速読術一数冊並行読書術など、読書技術にかなりのスペースが当てられ、その後の主流となる技術論的読書論の画期となるのが本著であるといえる。そして、

○梅棹忠夫著『知的生産の技術』 (岩波書店、昭和四十四年)によりそれは頂点に達する。

しかし、このような技術一辺倒への批判がなかったわけではなく、

○黒田寛一著『読書のしかた』(こぶし書房、昭和四十五年)

などによる新たな模索がなされたが主流にはなりえなかった。その後、

○渡辺昇一著『知的生活の方法』(講談社、昭和五十一年)

○井上富男著『ライフワークの見つけ方』(主婦と生活社、昭和五十三年)

などでは技術論の壁を破る試みとして、読書の前提である生活環境、生活設計から考え直し、生活全般のなかでの読書の意義を位置つけようとの考えが提示されているが、どこまで成功しているだろうか。そしてここに至ってはっきり気付くことは、その主対象が従来の学生層に代って、サラリーマンに向けられていることである。もはやエリート学生を対象とした、古典・良書重視型読書論のみでは通用しない時代であることは確かなのだ。

「一般教養指定図書といったものが諸君に何の益もあたえ得ぬこともあろうし、たまたま理髪店で見た漫画の本が諸君の一生を決定してしまうことだってありうるのである」と、白土謙一は書物間の価値の相対化について論じている(『現代の青春におくる挑発的読書論』昭和出版)が、価値観の多様化と、先に引用した桑原武夫の言葉に象徴される現代の状況は、新しい読書論の再構築が容易ではないことを示している。しかし一方で、それが、渇望されていることをも反証してはいないか。

改めて、活字文化・読書の意味をじっくり考えてほしい秋の夜長である。

 

(本稿は、谷沢永一、紀田順一郎氏等の諸著作に負うところ大であることを申し添える。)

 

 

 


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