教育福島0087号(1983年(S58)12月)-005page

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巻頭言

 

プロフェッショナル

高野 廣治

というのをきき、矢も盾もたまらず十年程前に井戸を掘る決心をしたのである。

 

私の実家に百年以上にもなる古い井戸があり今なお使われている。生まれた時からこの水で育った私は近頃の水道の水が馴染めず、たまたま古老の話で私の土地に戦前とても良い水の井戸があり、近所隣りは勿論のこと、造り酒屋までこの水を貰いにきたというのをきき、矢も盾もたまらず十年程前に井戸を掘る決心をしたのである。

早速、或る工事屋さんに依頼して工事に取掛かろうとしたら「昔良い水が出たとしても何十年も経っているんですから今も水脈が通っているとは限りません。県庁のような大きな建物も出来ていることだし、必ず水が出ると受け合うことはできません」とソッケない返事である。しかし、機械の力はものすごい。工事が始まるとまたたく間に鉄のパイプが沈んでゆく。半日程の作業が順調に進んだその日の午後、五メートル程のパイプに手押しのポンプが接続されて水を汲み上げる作業が始まった。

「矢張り駄目ですな。ここには水がありません。大体粘土質の地層には水が無いことになっているんですから」と、それ言わんことじゃないといった顔つきである。だが一回であきらめてしまうのはどうしても惜しい。「ここが駄目ならもう一か所だけ別のところをお願いします」と只々哀願するばかりである。翌日二本目の作業を見守ったが遂に「念願の水」を見ることはできなかった。

数日たったがどうしてもあきらめきれず「何事三度」と知人という知人に頼んで見たのである。ところが、「俺の田舎の親戚が最近井戸を掘ったというから早速聞いてやろう」という友人が現れ、二日程たった夕方、その「手掘りの井戸屋」という人が私を訪ねて呉れたのである。

これまでのいきさつを詳しく話して、「大丈夫なものでしょうか」とおそるおそる聞くと、返ってきた答えに私は驚いた。「旦那さん、私は井戸掘りです。水が出るまで掘りますから、どうぞご安心下さい」というのである。もの静かだが何という信念と気迫、私は半ば唖然として明日からの工事を願ったのである。

翌朝、早く起きて一行を心まちに待った。

約束通り一分も違わず一台の古い小型乗用車がやってきた。見ると「井戸屋さん」の一行のようであるが、昨日の親方の顔が見えない。不審に思って尋ねると、車の一人が降りてきて、トランクを開いて「ここです」という。中にはツルハシやロープ、バケツと一緒にかの親方が背を曲げてうづくまっているのである。「四人乗りで一人余ってしまうものですから私が一寸失敬してここに乗ってきました」といとも平気な顔である。

昨夜に続く今朝のできごとで二度びっくり。どこの世界に親方がトランクの中で窮屈な思いをし、弟子が座席に乗るという話があろうか。やることなすこと桁違いである。

この日から私は毎朝必ず工事場に一升瓶を立てたのである。私は感動したのである。

こうして毎日一メートルか二メートルずつ掘り下げられていったが、丁度十メートルの深さに達したとき大きな岩盤に突き当たってしまった。六月というのに外の暑さとは反対に目もくらむような底から親方の吐く白い息がはっきりと見える。岩に挑むタガネの音が三時間程続いたと思った瞬間「水だ!!」というさけび声が湧き上った。見ると汲み上げる間もない程の水が岩を通した穴から文字通りゴンゴンと湧き出ているのである。

ドロ水を汲み上げる作業が三十分程続いた後、親方は梯子を伝わってゆっくりと上がって来た。新しく汲み上げた水を茶腕に取り、別の急須から玉露をそそぐ。お茶の色には何の変化も見られずその儘である。「大丈夫です。とても良い水です。お目出度うございました」と言葉少なにいう親方のおごりのない言葉に只々顔の下がる思いであった。

工事を完了した夜、この人達に御祝儀をはずんで一席を設けた。心から嬉しかったからである。そして酒中でまたまたこんな話をきいたのである。「水脈があるか無いかを見つけるときには、夕方あちこちにうるし塗りのお腕や重箱を伏せて置き、翌朝陽の上がる前に一つ一つひっくりかえして見ると汗をかいているところには必ず水があると先祖に教えられました。先人は偉いものです」と言うのである。私はここでも又、思う存分「真のプロフェッショナル」の姿を見せつけられたのである。否、プロとはかくあるべきものであるということをしっかり教えられたのである。

(たかのひろじ・FMC混声合唱団指揮者)

 

 

 


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