教育福島0087号(1983年(S58)12月)-007page

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十年一昔といい、三十年となりますと一時代を画す、と聞きました。

劇団創立は、昭和二十八年十二月二日ですから、この十二月二日で満三十周年を迎えたことになります。過ぎてしまうと、一時代もアッという間に思えますから面白いですね。

楽しいこと、嬉しいこと、苦しいこと、悲しいこと、沢山沢山あった筈なのに、一瞬の間に思えるので、また先へ先へと進む力も湧いてくるのでしょう。人間とはたくましいものだと思います。

私の役者歴も三十年。いろいろな女人を演じました。八田尚之作品が十六本。これは、十年間に手織座のために八田が書下した貴重な財産です。八田の没後二十年の間に、小品も入れて十本演じていますから、私は舞台の上で二十六人の女性の人生を生きてきました。

それぞれ、一人一人を精魂込めて創り出すわけですから、赤ちゃんを十か月お腹に入れて出産する母胎と同じ、生みの苦しみたるや言葉に言い難いものがありますが、一つ一つの小さな息吹のはじまりから、やがて形ができてきた時の喜びは、また、言い現し難いほどで、矢張り自分の生命が本当に喜んでいるという充実感で身体がはち切れそうになります。本当の生きがいと言ったらよいでしょうか、生命は自分のためにあり、また、他人様のためにもあるのだということが、客席と一体となって、しみじみ分かることができる時間を持てるのは、幸せの限りだと思います。

ドラマの中の人物で、特に心に泌みる人間像は、八田尚之作品中からは、「よろこび」のとよ、「愛の凄鬼」のちさ子、「ふるさとの詩」のおきん、「証言台」の厚子、「愛しきは」のぎん、吉野せい作「洟をたらした神」の吉野せい。そのほか、瀬戸内晴美作「かの子撩乱」の岡本かの子。深沢七郎原作・小山清茂作曲「音楽劇楢山節考」のおりんなどが挙げられます。

岡本かの子、吉野せいは、皆様ご存知のように、現実に、明治、大正、昭和を生きた人物です。特に、福島県小名浜に生まれ、開拓小作農民三野混沌と結婚し、五十年間農民として血汗を絞って重労働をし、七十歳を過ぎて「暮鳥と混沌」「漢をたらした神」を書きあげた吉野せいざんの、人間業とは思えぬ底力に、私は人間として、女として、心の底から感動し、ひれ伏したい思いを味わいました。

 

「この空の下で、この雲の変化する風景の中で朽ちはてる今日まで私はあまり迷いもなかった。それは、さんらんたる王者の椅子の豪華さにほこり高くもたれるよりも、地辺でなし終えたやすらぎだけを、畑に、雲に、風に、すり切れた野良着の黒い手に衒いなく、しかと感じているからかも知れない。……農業は最初に女の手から創られた……愛情、出産、定着性という天与の素質を備えつけた女というもの、本能から生まれた自然の成果であったことを思い私はしみじみその成り行きの素直さに慎しいものを感じる」(吉野せい・「私は百姓女」)

こういう生産者としての女性の吉野せいさんの前に、私は一言もない感じで、公演が終わってから、すっかり落ち込んでしまい、自分が生きている価値さえうたがわしく思われました。土と取り組んで生産する仕事である農業に対して、役者という職業のコンプレックスをこの時ほど感じたことはありません。

でもあれから九年、変わらずに手織座の仕事を喜びながら、幸せを感じながら続けている私は、七十五歳になって、たぐいまれな作家と花ひらいたせいさんと同じように、矢張り役者に生まれついているのでしょう。

いろいろな人生との出会い、人間の光り輝くものの認識が、私の足下を照らしてくれるほのかに明るい光の貴重な道標となっているのだと思います。

私に与えられたものの光と影を背負いつつ、ある時はよろめきながらも、顔は幸ぜに輝いて歩みを進めて行きたい。なしおえたやすらぎをしかとこの身に感じる者でありたいと願っているのです。

 

 

 


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