教育福島0087号(1983年(S58)12月)-023page

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随想

 

生徒に学んだこと

三澤 由紀

と、気持ちを新たにしたのであった。あれから七か月、また雪の季節を迎える。

 

「只見町立朝日中学校教諭に補す」辞令書を手にしたときの少し不安の入り混った心地よい興奮が甦る。赴任したのは山の麓の小さな、しかし立派な学校で、四月になろうというのに、校庭は、まだ一メートル以上もあろうかという雪で覆われていた。驚きと同時にここに第一歩を踏み出すのだと、気持ちを新たにしたのであった。あれから七か月、また雪の季節を迎える。

この間私が体験し、学んだことは、言葉には尽くし難いものがある。しかしながら、私が生徒たちに何を為し得たのかと自問すると夫、遺憾ではあるか、答えに窮してしまうのである。

学生時代、教師像や授業のあり方に私なりの理想を掲げ、学んできたつもりであったが、現実とのギャップは想像以上に大きいものであった。もちろん新卒の私が、教職経験何十年という先生と同様に何もかもこなせるはずはなく、授業案通りに授業を進めることなど望むべくもないのかもしれない。しかし生徒たちの前に立ったその時から、そんなことは問題ではないのであり、また、そんな言い訳が通用するわけもない。「生徒は教師を選べない」のだから。生徒とともに過ごす中で、すでに言い古されているこの言葉が一層重く感じられるのである。

本校は全校生百十九名という小規模かつ僻地校である。若い教師の入れ替わりが激しく、生徒もそれに慣れきっている。年齢の近い親しみからか、言葉使い、態度等、全て気安すぎるように感じられる。教師と生徒との心理的な落差が小さいとも言える。中でも私は小柄で新卒の新参者とあってか、生徒を叱っても、反応は「迫力ねえな、全然おっかなくねえよ」である。「恐くない先生」のイメージが定着してしまったのに気づいた頃には、授業中の私語が目立ち、勝手きままな行動をとる生徒が出はじめた。私は次第に大声で叱ることばかりが多くなり、その間の生徒たちのつまらなそうな表情に心が痛んだ。

授業中に生徒が乱れるのは授業に対する不満の現れであり、それは他ならぬ教師の責任であると自戒してはみても、生徒をひきつける授業をすることは容易なことではなかった。あれもしたい、これもしたい。しかしどうしたらおもしろい授業、わかる授業ができるのか。試行錯誤の繰り返しである。思うように授業は進まず、生きた人間を相手にすることの難しさを痛感する毎日である。

また、生徒を叱る、あるいは褒めることの難しさも生徒に教えられた。生徒は教師の思わくなど、いとも簡単に見破ってしまうのである。指導力不足から非常手段として怒鳴ってしまうとき、ほんの一瞬、生徒を見限ってしまう。そして、意識して褒めてやったとき、彼らは恐いほど敏感にそれを感じとり、そっぽを向いてしまう。生徒に対して誠実でありたい、発する一言一言を大切にしたいなどという私の姿勢など、全く実を伴っていないことを教えられたのだ。「教師は教えることにおいてプロであるのはもちろん、叱ること、褒めることにおいてもプロでなければならない。近所のおばさんや父親、母親と同じ叱り方、褒め方しかできないのでは、教師としての価値はないではないか」という恩師の言葉を噛み締めるが、それには教師として、人間としてあまりに経験不足である私なのだ。

この七か月間は、私にとって決して楽なものではなかった。授業においても生徒指導においても、教師としても自分の不甲斐なさが情けなくもなった。しかし、やはり生徒と一緒にいる時が一番楽しい。躍動する生徒ののびやかな美しさには、いつも目を見張ってしまう。普段手を焼いている生徒の思いがけないやさしさを発見することもある。生徒は生徒なりに考え、悩み成長したいと願っている。生徒と語り合う時間が多く持てるようになってきたこの頃、彼らの言葉の中にはっとさせられるものを見つけ彼らのエネルギーに圧倒され、この生徒たちのために何とかしなければと勇気づけられる。

教壇に立って、生徒から学んだことも数知れない。教師として踏み出した第一歩。その後は躊躇することばかりであったが、それを救ってくれた生徒に心から感謝している。そして、長いこれからの道のり、一歩一歩生徒とともに歩んで行きたいと思うのである。

(只見町立朝日中学校教諭)

 

 

 


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