教育福島0087号(1983年(S58)12月)-026page

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随想

 

基準点ゼロからの出発

佐藤 泰彦

に、生涯を終えるはめになったかもしれない。もちろん、公務員などにも……。

 

猪苗代は、自然に恵まれた、会津の表玄関である。降雪量の過多を除けば気候的に、以前訪れた厳寒のドイツ・ミュンヘンに似ているように思う。当時の自分には、「心のゆとり」などというものはなく、ただ、法律を学び修めること、そして、そのためにはドイツ留学が必要であることしか頭になかったようである。滞独中に風邪をひかなかったならば、自分は一生、人のやさしさというものを知らないままに、生涯を終えるはめになったかもしれない。もちろん、公務員などにも……。

ミュンヘンで二週間ほど病の床に伏していたときのこと、ひとりの掃除婦(実は十八歳ほどの女の子である)が持ってきてくれた一杯の紅茶。その味が自分の人生観・世界観を一変させたのである。その女の子は、小学校程度の学校教育しか受けていなかったためか、きわめて幼稚なことばしか話せずしかも、語いは同情するほど乏しかった。日本人は、目と目あるいは腹と腹で対話する国民であると言われるが、ぼくと彼女との間にも、国、民族の違いを越えた、ことばの媒介を経ない会話があり、ぼくは、その会話の中に、その子の心のやさしさを痛切に感じとった。「機械人間から血の通った人間へ」そんなことばがぴったりするほどに、からだが熱くなる思いがした。自分は何のために法律を学んできたのかそして、誰のための法研究であったのか。結局、自分はなにも分らずに専門書を読み、六法のページを繰っていただけだったのではないか。彼女との出会いには、道徳教育で教えられた「やさしい心」などとは違い、新鮮な喜びと感動が含まれていたように思う。一期一会の心、「思いやり」ということばを好きになったのも、そのときからである。

そんな心の変化が、ぼくに大学院中退を決意させ、県職員への道を歩ませることとなった。校内暴力、家庭内暴力、教育の荒廃が話題にされ、学校=生徒=家庭という連携が叫ばれている中で、敢えて教育委員会を志望したのは、学校教育の中に「心のやさしさ・思いやり」を求めたからである。

しかし、そんな抱負も辞令交付後まもなく消え去った。自分は事務職員であって、教員ではなく、生徒たちと直接に接触し、教育する立場にはない。学校の目的は教育を施すこと、あるいは、能力を育成することにあるから、見方によれば、学校には教員がいればよく、事務職員など必要ではない。そんな思いが就職したことに対する失望として現れるのも当然で、学校事務などやめてしまいたいと思ったものである。人間万事塞翁が馬を決めこんでとにかく数年間、おとなしくしていようかとも考えたが、こんな煩悩から解脱したような境地に達することができないまま、数カ月が経過した。思いやりの心のある仕事をしたいという気持ちと矛盾したままに……。しかし、どうしてこんな仕事をしなければならないのかという気持ちは、時の推移とともに、自分の仕事がなければ学校教育もできなくなってしまうのだという気持ちに変化した。

自分は庶務係である。「庶務」というのは、「いろいろな仕事」であると辞書に出ている。自分では庶務=雑務であると考えているが、どうも雑務というとマイナスイメージがあるようである。しかし、雑務はいわば数直線上のゼロであって、線上のある一点をプラスにするも、マイナスにするも、基準点ゼロに掛っている。自分は、そんなゼロである。自分は目立たない歯車で、充分に回転することもできない歯車であるが、しかし、どんなに小さくても、それがなければ全体の作動はないのである。自分は、間接的ではあるが、学校教育に携わっているのだという意識をもてたことは、この数か月間の成果であろうかと思う。県職員として、福島県、県民のために誠心誠意職務に励まなければならないが、自分はまず公立学校事務職員として、学校教育に貢献しなければならない。福島県を担う次の世代を育成するために。教員をサポートしながら、間接的ではあっても「思いやりの心」を学校教育のなかに浸透させていきたいと思う。事務屋の本分をわきまえたうえで。

春と冬しかないと聞かされた猪苗代の冬は、これからが本番である。心も凍ってしまわないよう、常に暖めながら……。

(福島県立猪苗代高等学校主事)

 

 

 


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