教育福島0088号(1984年(S59)01月)-032page

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随想

 

ずいそうずいそうずいそう

 

若き教師の息子へ

 

伏見裕方

 

伏見裕方

 

「親父」と呼んでくれる若き一教師に宛て、励ましのことばを贈る。

一読され、心の隅にとどめることでもあれば…。

 

息子よ。

 

おまえが中学一年生の正月に、「教師になるんだ」と言いだした時、父は教師の責任の重大さについて、いろいろ例を挙げて説明し、おまえの今の性格・生活状態からしてとても無理であると、希望について再考を促す話をした。

今もそれは覚えているだろう。

ところが、・高校に進学しても、父の意見に反発したこともあろうが、ますます教師になることへの希望を強め、大学でも教職課程をとり、あこがれの「教師」と呼ばれる職に就くことができた。

おまえが、「教師になる」と言い出した時、父も教師であることから、おまえを教師にさせることに実は賛成であり、その希望を持ったことに大きな喜びを感じた。しかし、子供一人一人を大切にし、一人一人を生かすという教育の基本的課題を解決することに非常に悩み、苦労してきた父は、(このことは、それまで口に出したことはなかったが、おまえは父の姿を見て感じてはいたことと思う)おまえの理想主義的、利己主義的な考えや行動に、教育者としての不信を感じ、今後成長しおまえの個性的な適性が十分に生かされ、それが教育の社会においてみごとに役立つ姿に自ら変えようとする気持ちを期待しての話だった。

強い希望をもち、大学でも教育に関する専門的知識を修得して就職したのだから、立派にやれるだろう。(周囲ではみなそう思っている)

おまえが就職する前から、新教育課程が実施された。知っているとおり、教師の創意・工夫が打ち出され、それが教師に強く要求されている。理想的なことを得々と述べていたし、専門的な知識も身につけてきたおまえだから創意と工夫による教育活動などお手のものだろう。(あまり強すぎるかな)だが公教育であるから自分勝手は許されない。教育課程の趣旨を理解し、学習指導要領にのっとり、その中で創意を発揮することを忘れないでもらいたいしそれを大いに期待している。

だが、おまえの心配な点は、教育活動を行うからには、活動している子供たちがいて、その子供たちが学習しているかどうか、また、活動が学習に効果的かどうかということを時には忘れてしまうのではないかということだ。子供に働きかけるのだ。自己満足の教育活動であってはならない。

おまえはまだ二十歳代である。若い教師である。若い教師の持っている新鮮さは、何ものにも得がたい教師の魅力である。おまえも小学生の時、若いA先生に担任されて「毎日が楽しい」と言ったことを思い出せるだろう。A先生のどこが、何がおまえをひきつけたのか。思い出してみるがよい。その事を自分の心の中に入れ、自分のものとして担任している子供たちに出し与えて欲しい。

若さは魅力であるが、何といっても経験不足からくる指導の甘さは、だれでも認めるところである。でも、若さに甘えて気をゆるめてはならない。おまえは子供を教育する職に就いたのだ。教育を待つ子供たちがおまえを待っているのだ。それを考えた時「指導の甘さ」などないだろう。研修に励むのだ。大学で専門的知識を、また、数年の経験と研修によって知識、技術を修得したといっても、情報化社会の進展により、教師のもつ知識・技術の耐用年数は次第に短かくなっていると言われている。研修に終着駅はない。

学校における具体的な教育は授業を通しておこなわれる。そこで「子どもにわかる授業」「子どもにわからせる授業」を創造するためにとり組んで欲しい。

なかなか帰省する暇もないようなので、書面をもって。おまえの理想が現実に生きるため、老婆心ながら…

 

息子へ。

 

(原町市立原町第一小学校教頭)

 

 

 


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