教育福島0089号(1984年(S59)02月)-006page

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あるなつあきふゆ

 

たった一台のピアノから

 

音楽家 若松紀志子

 

【筆者紹介】

東京府立第六高等女学校から東京音楽学校(現東京芸術大学)本科ピアノ科を卒業。終戦後、平に居住。ピアノ研究会「アザミ会」を創設し、音楽の振興に努める一方、磐城高等学校、福、島工業高等専門学校で音楽を指導。

昭和四十三年には、こわれて郡山女子大学、同短期大学部で音楽教育を担当、現在音楽科主任教授の要職に就いている。また、本県テニス界の中心人物で、福島県女子テニス連盟会長、いわき女子庭球連盟会長でもある。

東京芸術大学油絵科出身で、新作家賞・岡田賞受賞作家、いわき美術協会長光一郎氏は、ご主人であり、おしどり芸術家である。大正四年、京都の生まれ。

 

「うちは、大きなったらピアニストになるんや」と、八歳になったお正月、家族に宣言して、むりやりピアノを買ってもらい、五人もいる兄達から「うるさいなあ」と言われながらも、自分の夢をしっかり持った少女時代を幸せに思う。

京都ではピアノの勉強は不十分とみきりをっけ、小学校を卒業するとすぐ、ちゃっかり東京の姉の家に居候をきめこんで、女学校に通い、ピアノに勉学にスポーツにと、盗れるようなエネルギーを燃焼させていたが、さて苦労の末、憧れの東京芸大に入ったものの、卒業する頃には戦争に突入する騒然とした世の中で幼い時からのピアニストの夢ははかなく潰え去ってしまったのである。

終戦と同時に、今迄足を踏み入れたこともない東北の地に移り住むことになり、敗戦の厳しさの中で、私は何をしたらいいのか、ただ呆然としている虚しい日が続いた。その時、かって、学校でお世話になった永井進先生(芸大の先輩で後に同大学の主任教授になられた)の言葉が、ふとよみがえってきたのである。 「東京には、えらい先生が沢山いるけど、地方−特に東北には指導する先生がいない現状だ。埋もれた才能を引き出すのは君の使命だよ」…「そうだった、私にはピアノがある。文化果つる地と言われた東北で、私に出来ることは音楽しかない」…確かに、その頃住んでいた湯本には、ピアノのある家はたった一軒、大きな酒屋のお嬢さんが持っていたものだけであった。

それからの私は乳呑子を膝にのせて、ピアノを弾き、歌い、時には朝の八時から夜の十時近くまで教えるとい

 

 

 


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