教育福島0090号(1984年(S59)04月)-031page

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随想

私の小学校時代

 

良き師との出合い

 

金沢市郎

 

金沢市郎

 

人生を豊かに生きるために、「心に残る思い出を沢山つくれ」といつも生徒たちにいっていますが、私の小学時代をふりかえってみても楽しい思い出でいっぱいです。それは昭和八年四月から同十四年三月までの六年間のことでだいぶ昔のことですが今も鮮明に記憶しています。また、つらかったできごとも年がたつにつれ昇華されて楽しい思い出となって心に残るのも不思議なことです。

一年生の年度半ばで担任の先生がお辞めになり、先生が次々に変わり何か奇異な感じを持ったこともありました。当時の始業の合図は小使いさんの打ち鳴らす大太鼓でした。いつのころからかサイレンに変わりましたが心に残るのはなんといっても大太鼓の響きです。

二年生から三クラスとも男女共学の編成になり六年まで組替えもなく、担任の先生も五年間持ち上がりでした。当時としては男女共学の編成は珍しいことで、上の学年にも下の学年にもなかったように思います。二年の新学級が編成されてまもなく、数人の男子が女子をいじめて、男子全員が一列横隊に整列し往復ビンタをいただいたことを今も鮮烈な印象として残っています。これが担任と私たちの出会いであり、このことが教師と児童の強いきづなをつくり、素晴しい学級になっていくきっかけだったと思います。担任の先生は師範学校を卒業してまもない青年教師で音楽の先生でありました。のちのちの話では、二年二組は悪童揃いなのでしうかり気合を入れて指導するよう校長先生から申し渡されていたということでした。

私たちは、数人集ってはよく先生の家に遊びに行きました。時にはお手伝いもしましたが、柿の木に登っておばあさんに叱られたりもしました。先生のいない時間(放課後)に先生の家へおしかけて遊びまわっていたことを今思うと、しょうのない悪童たちだったにちがいありません。それでも先生の奥様もおばあさんもいやな顔一つせず遊ばせてくれました。

いつしか夜も先生の家に行くようになりました。風ろ敷包みに教科書を一、二冊入れ、夜学と称して六年卒業まで毎夜通い続けました。この生活の中で予習、復習のし方、風ろ敷の結び方、下駄のぬぎ方、冬上夏下といった炭火のおこし方、あいさつのし方など多くのことを身につけていきました。

私のクラスは音楽好きの子供でいっぱいでした。四年生の時だったと記憶していますが、屋体の真ん中に椅子と黒板を持ちこんで音楽の授業をうけました。沢山の参観者がいたのでなにかの公開授業だったのでしょう。先生は全児童一斉に楽譜の素読を指示しました。ところが私たちはここぞとばかり階名視唱をすらくとやってのけました。先生は一瞬とまどった表情をしましたが、「よし」といわれました。私が教師になってからこの話をしましたら、批評会で芝居の授業だろうと酷評され実は困ったのだといわれました。先生は事前に「近く沢山の人がお前たちの授業を見に来る。この歌をやる」とひとこといったものですから子供たちだけで練習していたのです。こゝで歌ったら参観者はびっくりするだろう、先生にもほめられるだろうと思ったのですが、今考えると大変ご迷惑だったと思います。

私たち小学校の同級生は、今でも仲間意識が強く、恩師を慕う心情も他のクラスにはみられないものがあるように思います。それは、二年から卒業まで五年間も同じクラスで同じ先生に薫陶をうけたことによるものだと思います。今は回復しましたが、数年前先生が交通事故にあわれた時も、夜を徹して恩師の傍から離れなかったのもこの同級生でした。

故平塚益徳先生は、学校とは良い教師に出会える場所であるといっていますが、私の小学時代を語るとしたら恩師柴山先生を語る以外になにものもないのです。本当に良い先生に出会えたことをしみじみと幸いに思います。また、学校とは良い友と出合える場所であるともいっていますが、小学時代の同級生全員が今でも親密な感情をもち恩師を中心に強いきづなで結びついているのも誇らしいことだと思います。

(棚倉町立棚倉中学校校長)

 

 

 


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