教育福島0090号(1984年(S59)04月)-032page
随想
私の小学校時代
十勝の空で
安藤御民
入学のときの祖母の贈物は白いセーターだった。祖母の飼っていた羊の毛を刈り、糸につむぎ、その毛糸で編んでくれた、少しごわごわしたセーターだった。入学式のときそれを着た。
母が死んでから、以前から仲の悪くなっていた父と祖母の間が一層、険悪になって、学校の帰り道、少し寄り道をすれば行けたのだが、祖母の家へ行くことを父から固く禁じられていた。家の前で友人と遊んでいると、偶然通った風を装って祖母が様子を見に来ることもあった。PTAの用にかこつけて学校に来ることもあった。
学校の帰りに、友人を一人つれて寄ったごとがあった。帰ろうとしても仲々帰してくれなかったが、帰り際に、庭に一番きれいに咲いていた花を次々と切り取って、一かかえもある花をよこした。「お母さんの祭壇に飾るんだよ」そう何度も繰り返し繰り返し言った。
十勝の長く厳しい冬が終ると、雪解けの音と共に、急に春がやってくる。そして、輝くような短い夏、八月には、もう、秋風が吹き始める。
散歩が大好きだった。雪解けの湿地帯に咲き誇るみずばしょうの群落。六月の乾いた草原、一面のすずらん。まだ、夢ばかりをあれこれと思い描き、少しも未来をうかがい知ることのなかった少年時代だった。
今は両親の墓が帯広郊外の丘の上にある。母のためにつくった、白い大きな木の十字架はもう朽ちてしまった。
母が死んでから、幼い弟は叔母の養子となり、兄は祖母や伯母のところへ預けられたりして、私だけがいつも病気がちの父のそばにいた。食事も洗濯も、縫い物でも、ほとんど自分でやれそうなことはなんでもやった。ポテトサラダや野菜の天ぷらもつくって父に感心されたりもした。今思うと赤貧洗うがごとしてあった。
六年生のとき市の健康優良児の最優秀児童に選ばれた。病弱だった父が一番、喜んでくれた。前年度と翌年度の最優秀がそれぞれのちの玉嵐、藤の川という関取りだったことをずっと後から知った。いわゆる早熟型だった。学校では、いつもまじめで、素直で明るい性格の生徒で通っていた。ともかく体格が良かったから、学芸会ではいつも、先生や大人の役ばかりやらされていた。時々養子に行った弟の同級生が、あわてて私を呼びに来ることがあった。ケンカだった。大抵は弟が勝っていたので手は出さなかった。それよりも、養子に行っても私のことを兄だと思っていてくれたことがうれしかった。
十歳になってまもなく母が死んだ。最初から自分は癌であることを知りながら、決してとり乱したりしない気丈夫な母だった。今、自分はその母の年齢もはるかにこえていて、写真を見ると自分よりももっと若い母親がそこにいる。なにかやり切れない可愛いそうな気持になる。
小学時代の大半は、北海道の十勝平野の真中にある帯広市で過した。母は死んでしまったのだと自分に言い聞かせて見上げた空の、北国特有の凄じい青さ、夜空をぎっしりと埋めつくすような無数の星のきらめき、冬の厳しい寒さ、これからどうなるのだろうというおぼろげな不安。今となっては良く思い出せないようなはずんだ気持や暗く沈んだ思い。
両親とも教師だった。父はもともとは獣医師であったが、私が小学校に入学するころにはすでにその看板を降し教員になっていた。今でいう共稼ぎ家庭であった。学校から帰ると、いつもストーブの上に煮豆ができ上っていた。石炭ストーブの残り火を利用した、母の心使いであった。ランドセルを抛り投げて、お腹一杯それを食べ、あとは遊びに夢中だった。夕方にかえりおそるおそる玄関を開けると聞える父の低くこわい声。「み・た・み!」
「親を踏み台にしても良い。子供は自分の大志のために生きよ」という、「少年よ大志を抱け」の精神であった。のか、血を吐くような父の一言もいまだに耳に残っている。
その父も、私が高校を卒業して間もなく、十年におよぶ闘病生活の末、死んでしまった。
(福島北高等学校教諭)