教育福島0091号(1984年(S59)06月)-024page

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確かに私の少年時代におけるスポーツ体験は、苦い思い出ばかりであった。背が低く、やせ細った体で、友達とすもうをとると、ころころとだれにでも投げとばされ、とび箱は跳べない、鉄捧はできない、運動会ではいつもビリから二・三番目をトコトコ…。したがって体育の成績など良いはずがなく中学二年までずっと『2』が続いた。そんな体験から、体育の嫌いな子がいるとどうしても同情してしまうのである。そして、生涯にわたる運動生活やスポーツ参加への意欲と能力といった画から考えて、「楽しく運動できる子供」を第一に考えるのである。

また、生涯を通じて、人生のそれぞれの環境や段階に応じたスポーツの位置づけを考える生活の知恵を育てることが大切だとよく言われるが、本校では、自慢のできる伝統的なそれが、十年以上も続けられてきている。毎週木曜日になると、職員運動日と称するバレーボールが行われるのである。二十代から五十代までのバランスのとれた職員構成であるが、だれともなくネットを張り、三々五々と集まってきて、「バレーボール遊び」に興じる。ホールディング、ドリブル…そんなかたいことはぬきである。仕事が多忙でも、その日になると体育館に足が向いてしまう。おかげで夜半まで仕事が持ち越されることも多いが、かえってその後の作業がはかどるのだから不思議である。したがってストレスなど蓄積されず、みな健康そのもので、職員間のムードも最高である。“Positive

health”(スポーツなどによる積極的な健康対策)と言った言葉を聞くことがあるが、まさにこれこそ、いつでも、気軽に、しかも自然にスポーツに親しむ生活ではあるまいか。

さらに私は、中学の体育教師でバレー部を担当している妻が、昨年から、「このごろ体力がなくなった、疲れる」と言うのを聞いて、身のほど知らずに、時々手伝うことにした。初めは、どこでどのように手を出してよいのかわからず、ただうろたえていたが、そのうち結構役に立つようになってきた。すると、生徒たちやチームにも愛着が出てきて、父兄共々家族ぐるみで付き合うようにもなった。生活指導や学習面での相談も受けるようになり、私としても中学との関連に立った小学生の指導といった面で大変プラスになった。

生涯教育とか、生涯体育とかが叫ばれて久しいが、それは、生涯知育だけであってはならないし、体育においても、知識を覚えることや、技能向上の偏重になってもいけない。一人一人の個人が、自分の個性・能力に合わせて、生涯知育・生涯体育・生涯徳育のバランスを考えながら有機的に総合していくことが、本当の意味での生涯教育といえるのであろう。そんな観点から、学校体育・教科体育を考えると、指導者としての自信も薄らいでくるが、せめて『スポーツ好きの体育嫌い』な子にはしたくない−。そんなことを考えながら、日々の体育指導を模索しながら実践している昨今である。

(会津高田町立高田小学校教諭)

 

無言の教え

吉田 規正

 

は、物心ついた頃、汗にまみれた柔道着姿の父を険にした時に始まったと思う。

 

私とスポーツとの出合いは、物心ついた頃、汗にまみれた柔道着姿の父を険にした時に始まったと思う。

そんな私は四、五歳の頃から、無類の野球好きでもあった父にボールとグローブを与えられ、毎日のようにキャッチボールの特訓を受けたのです。それが小学校六年生まで続けられ、いつしか野球は私の生活に欠かせないものになっていたのです。

放課後になると、野球好きの友だちとチームを編成し、よくわからないルールを自分たちの都合のよいように改めて試合をするのが唯一の楽しみでもありました。

遊び疲れて家路につく頃、一日の仕事を終えた大人たちが集まってきて、野球の練習を始めるのです。汗と泥にまみれ、ボールが見えなくなるまで互いに声をかけ合い、きびきびとプレーする姿に強く心を打たれ、ひとり足を止めて夢中で見ていたものでした。

この大人たちの野球にかけるかたくななまでの情熱が私をしていっそう、中学の野球部へとかりたてたのです。練習は思ったより厳しく、苦しいものでした。チームプレーの難しさを感じながらも、県大会出場を目指して夕方遅くなるまで練習に励みました。しかし、もう一歩のところで目標が達成できず、くやし涙を流したことが懐しく思い出されます。

幸い、県中体連陸上競技大会では、八百メートルリレーに入賞、走り高跳びで優勝し、満足感を味わうことができました。この頃から、スポーツの苦

 

▲思い出のひとコマ

▲思い出のひとコマ

 

 

 


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