教育福島0091号(1984年(S59)06月)-025page
しみや喜び、楽しさがわかってきたように思うのです。
不注意がもとで肩をこわし、大好きな野球を続けられなくなったのは、高校進学後間もなくのことでした。その後は生活にも張りがなく、これといった目標も持てずに過ごしていました。
そんなある日、宗像先生の「お前は、スポーツをしないと駄目になる」の一言が、陸上競技の道へと走らせる結果になったのです。練習は孤独でしたがよきライバルにめぐりあい、二年生の時、高校総体県予選で五種競技に入賞するまでになりました。
私が体育教師を目指すようになったのは、関根先生の無言の教えがあったからです。ひと足早くグランドに出て、黙々と整備しつづける先生の姿は、スポーツを愛する心と地道な努力の大切さを教示せずにはいなかったのです。
教職についてからは、体育の授業はもとより、部活動の指導においても、常に生徒と共に跳び、走ることをモットーに、自己をも鍛えてきました。ですから、県選手権大会で二種目に優勝して、初めて国体に参加できた喜びはひとしおだったのでした。しかし、同時に自分のうぬぼれとそれまでの努力不足を痛切に感じさせられた大会でもありました。
生徒に数多くの運動を体験させることは、人間形成上、特に中学時代は重要であると思います。そして、その中から能力に応じた適切な運動の機会を与え、一歩でも二歩でも前進しようとする努力の大切さを学びとらせ、苦しい練習後の真の楽しさ、ベストを尽したあとの充実感や満足感など、これからも共に享受していきたいものです。
機械文明が発達し、からだを動かす機会も少なくなった今日、さらに人間関係の薄れがちな社会の中にあって、私にとってスポーツは、単なる身体活動だけでなく、喜びや楽しみ、苦しみが入り混じった経験を通して、自分の生き方を見つめ、反省し、隠れた能力を発見し、人間本来の姿である健康と生きがいを求めていくものであると考えています。
(浪江町立浪江中学校教諭)
相撲考
佐藤 国喜
男が男の肌に見とれた、と言ったら変に思われるだろうが、実はそうなのである。今年の一月、はじめて蔵前国技館に足を運んだ。そこで本場所の土俵にのぼる直前の力士を見た時の実感である。彼らは稽古と休養と栄養のバランスがよくとれると、体の芯からつやが出るらしい。健康美というのか、美しいものである。
ところで、スポーツといえば私にとっては観るものであり、とりわけ相撲が好きである。あの「まげ」をつけ、「まわし」一つで一瞬の勝負に立ち向かう姿に、なんともいえない魅力を感じる。そこで相撲について少々。
まず簡略にその歴史をたどってみる。相撲に類する力を主とした格闘技は、古来世界の各地で行なわれていたという。例えば紀元前三千年ごろの古代バビロニアの遺跡からは、二人の男が四つに取り組んだブロンズの置物が発見されている。それがヨーロッパではレスリングとボクシングに分化したが、モンゴル、朝鮮、インド、ソ連、東南アジアでは日本の相撲とよく似た競技として発達した。では、日本の相撲はというと、これも古い歴史をもっている。古事記、日本書紀の神話伝承からはじまるが、古くは豊作祈願の年占いの行事として行なわれたらしい。史実としての記録は六百四十二年にさかのぼる。その年、朝鮮からの使節饗応のため健児に相撲をとらせたというものであるが、その他の記録から見て、すでに七世紀ごろには宮廷において相撲観戦が盛んになってきたと思われる。平安時代には天覧相撲はより大規模となり、武士の世では心身鍛練の武術にとり入れられ、将軍による上覧相撲もよく行なわれた。相撲を半ば職業とする者が出てくるのは室町の中ごろであり、各地に職業相撲がおこってくる。元禄時代になり土俵、番付などができ制度的にととのい、谷風、雷電などの強豪力士が登場し相撲熱は高まる。明治・大正に入ると技術も向上し、職業としても高く評価されるようになり、大正末には東京・大阪の相撲協会が合併され、大日本相撲協会が誕生するのである。この古い伝統をもつ相撲を象徴するものの一つに「まげ」がある。これは江戸時代に多くの力士が大名の召抱えになって士分格にとりたてられたことによるが、断髪令にもかかわらず許された経緯がおもしろい。時の政府の長官に好角家が多くいたためという。
さて相撲のおもしろさとはなんであろうか。人によりさまざまであろうが、次の相撲改造論を材料にしてみる。(一)土俵円の拡大。大型力士の取り組みを考えると直経四・五五メートルは狭い感もある。しかし激しい動きや土俵ぎわの攻防を期待すると賛成しかねる。(二)ウェート制の実施。これには反対。小兵力士が磨きあげられた技で大きな力士をしとめるところに醍醐味があるのだから。(三)ユニホームの改良(まわしの上にショートパンツとか)。言語道断ということは、限られた丸い土俵(四角ではいけない)で、大も小も入りみだれて、まわし一つでぶつかりあうところにおもしろさがあるということになる。
私は教員としての新弟子検査(採用