教育福島0091号(1984年(S59)06月)-026page
試験)に通ったのが遅く、教師としては序の口、序二段にいる。相撲の世界でいう地力はまだついていない。ところが土俵で対戦する相手は容易に検査(高校入試)にパスして、小兵あり大型あり、なかには技を磨いた相撲巧者もいる。そんな相手でも本場所の土俵にのぼればいつまでも仕切っているわけにはいかない。まったをかければヤジが飛ぶ。まさにまったなし。限られた土俵をうまくつかって動きまわらねばならない。多様な生徒を相手にして星をあげるのは容易ではない。稽古を休めば立合いに迷い、腰くだけや肩すかしで土俵にはわせられるだろう。好敵手ぞろいである。また最近の相手には乗り物(バイク)に乗ったり、途中休場の多いのもいる。時には情もかけねばならぬ。
相手は三年で引退しても、こちらは毎年毎年息長く相撲をとらねばならない。兄弟子の胸をかりつつ稽古以外なしと心するこのごろである。
(小野高等学校平田分校教諭)
豊かな心を
吉田 勝則
私が本格的にスポーツにかかわりを持つようになったのは、高校生になってからだった。それまでは、近所の子どもたちが集まってのいろいろの遊びであったが、最近のようなスポーツ的なものではなく、小学校、中学校の運動会以外は、何々ごっこ的なものばかりであったような気がする。思い出に残るのは、近所の水神様の奉納相撲ぐらいである。野球の試合なども中学生の時がはじめてであった。
そのころに「柔道の妙技」という映画を見た。あの時の驚きというか感動は、今でもいくつかの場面を記憶しているほど強烈であった。それがきっかけで柔道をはじめた。自分もあのようなことができたらなどという単純な動機であったが、実際には難しく苦しい練習であった。加えて農家でもあったので、両親の反対が一番きつかった。また自分をはじめ周囲の人々もスポーツヘの理解が現在とは比較にならないくらい低かった。
はじめは家に隠れて練習していたが怪我をして、知れてしまう。また強く反対される。隠れてやる〜と繰返しが続いた。そのうち応援してくれた人が両親を説得してくれた。親もとうとう折れ、部活動を許可してくれてからは、家族も家事の忙しい時期でも都合をつけて応援してくれるようになっていった。生来の運動神経の鈍さと非力もあわさって上達も遅かったが、高校二年生の十二月、初段に昇段した。二十数年の柔道修業の中で最も喜しいことの一つであった。またこのことが、身のほど知らずというのか自分の進路を変更させてしまったような気がする。学生時代は、苦しい練習もあったが多くの友人を得、また遠征や合宿などでいろいろの土地を見聞し、おおいに視野を広めることにもなった。あれやこれ、汗くさい柔道着の仲間づきあいで学んだことは多かった。
体育の教師のスポーツヘのかかわりは当然であるが、高校教員としての自分にとって、一時期スポーツが生活のすべてであったような気がする。そのころは、このレベルまでは、勝つまではと生徒たちに要求し続けていた。そのことが自己満足にすぎないことに気付かず、また生徒たちが要求の強さにいや気をさしていたことにも気付いていなかった。競技、部活動、大会での勝利、これらがスポーツの全てだと思い違いをしていたのであった。このことに気付いた時、自分自信の未熟さを思い知り、恥かしさにふるえた。
今や日本のいたる所で毎日といっていいほどスポーツの催しがさかんに行われている。老若男女、楽しく参加していることは大変喜ばしいことと思う。反面、スポーツが社会的経済的な背景もあって、服装や用具、チーム数などが日毎エスカレートしており、ゲームも勝敗のみにエキサイトしている感がある。スポーツの大きな意味を知り、豊かになった生活とともに、心も豊かになってほしいと思う。
そもそもスポーツの語源は、仕事を離れて心をいやす、生活の気分転換をはかり明日への英気を養う、といったものであり、その中に運動があり、競技があり、遊戯があると思う。スポーツは楽しくなければ意味がないとも思うのである。そして当然各スポーツにおけるレベルは個人差があり、できる、できない、速い、遅いだけの能力差が個人の力を決定するものではないのではなかろうか。「スポーツを通して身心ともに豊かな人間形成を」が題目だけで終ることにならないようにしたいものと考えている。
また、スポーツが私に与えてくれたものに、多くの友人がある。競技や大会を通しての友人から、そのまた友人へと職業や種目が違っても、共通の話題、趣味、遊びへと友人の輪が広がり、かつ強まり、日々の生活に喜び、楽しみを与えてくれている。そしてその友情を支えているのは、一人一人の誠意であり、思いやりであることも教えて