教育福島0091号(1984年(S59)06月)-028page
の経歴など皆無であった。それが転任と同時に、五年生の若梅チームを任されることになったのである。
私自信もともとスポーツは好きである。しかし、引き受けてはみたもののどうやって指導していったらよいかと困ってしまった。そこで技術指導については、本を読んだり、先輩の先生に教えてもらいながら指導していくことにした。
その年の地区大会初戦では、惨敗だった。その時の悔しさは、今でも忘れられない。「もともと自分がサッカーをよく知っていれば…」という後悔の念だけが脳裏に焼付き、自分の指導力の未熟さを痛感した。それ以来、とにかく勝ちたい。子ども達を大きな大会でプレーさせてやりたい、の一念で技術指導に取り組み、自らもサッカーについて勉強した。おかげで、まったく素人の私だったが、四年が過ぎ、少しづつではあるが、サッカーがわかりかけてきた。
シザーズパスの練習をしていたある日のこと「先生△△君と組ませて、○○君は、いくら走ってもパスを出してくれない」とか「僕だって頑張っているのに…」とべそをかいていた。この子らに限らず、ずい分個人プレーが上達してきたのに、チームプレーになるとそれぞれがバラバラなのが目立ってきた。何が原因なのか。そこには、子ども特有の人間関係があり、自分の気の合った子とばかりプレーする子、自分の技術が一番うまいと自信過剰になる子、いざとなると自分がやらなければと思い個人プレーをする子などがみられた。彼らは、ただ単に個人の技術だけが向上すればよいのだろうか。サッカーを、スポーツをやる人間として、狭い心を持ってほしくない。みんなの心が、ひとつになってこそ本当の強さが生まれてくると私は考える。
スポーツ少年団の団員が小学生であることを考えた時、単なる勝利至上主義の技術指導に終始してしまわない事が大切であると思う。少年には、この世の中で自分はひとりだが、スポーツは自分一人ではできない。できても楽しくない。自分のためにみんながいてみんなの中に自分もいるのだ、という意識を育てる事が大切になってくると思う。そこに、人を思う心、他人に対する暖かさが生まれてくるだろう。
そこで私の理想とする指導者とは、まず少年の心を捉えることができる人だと思っている。少年の心は、ゆさぶるほど光り育っていく。次に、どんなテクニックを見せるよりも、人間的な魅力を持っている人には、かなわないように思う。何よりも、ありのままで少年から好かれる人による指導で、子どもは、育つのではないか。子ども達が、スポーツ好きでたまらなく、そして教える先生を好きになった時、初めて、本当のスポーツの指導者になったといえるのではないかと思う。
現在、試合の勝敗は、あくまでも結果であり、一番大切なことは、「勝つ」という目標に達するまでの過程であるという方針で指導している。そして、仲間づくりとマナーをしっかり身につけさせたいと思っている。私自信も、もっと勉強し、いろいろな面でよいチーム作りをしていきたいと考えている。
(いわき市立平第二小学校教諭)
任用替え二年目をむかえて
A沢 志津子
私は、会津短大を卒業してから五年間、養護教諭として保健室に勤務してきました。家庭科教員の採用試験を受けるチャンスに恵まれ、昨年度、本校に採用となり、今年で二年目をむかえます。
養護教諭の時は、学校の中でたったひとりで、かなり心細い立場ではありましたが、それゆえにか、生徒たちの本当の喜びや悲しみ、苦しみを知り、分かちあうことのできる存在だったのではないかと思います。
私の経験からしますと、不思議なもので、生徒たちにとって保健室とは、真実を語らずにいられない部屋とも言えるのではないかと思います。どんなにへそまがりの中学生でも自然に本音をのぞかせてしまいます。当時私は、なぜそうなのかをいろいろと考え、原因と思われることを取り除いてみたりしましたが、生徒たちは環境の変化に興味こそ示しますが、心を閉ざしてしまうことはなく、かえっておしゃべりになったりするのでした。
今、こうして考えてみますと、生徒たちと共に悩んだり考えたりした保健室での生活はとても楽しいもので、少しくらい体の具合いが悪くとも用事があっても休まずに出勤したい、という心境でした。
ところが「学校」という同じ職場なのに、授業を担当する立場になると、全く不満だらけになってしまったのです。去年の一学期間くらいは、生徒との触れあいが少なく、淋しいばかりでおもしろくありませんでした。一生懸命教材研究をして授業にのぞめば、生徒たちは、私の慣れない説明に耳を傾けてくれますし、理解しようと努力もしてくれるようです。けれど、授業が終わるとどうでしょう。私のことなどすっかり忘れたかのようにイソイソと実習室を出ていってしまうのです。声をかけようとしても『もう休み時間、お勉強の時間は終わったのよ』というような顔をされてしまいました。『生徒にとって、私は家庭科を教えるだけの先生でしかなくなった』ということを何度も自覚させられました。かといっ