教育福島0092号(1984年(S59)07月)-023page
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に取り組んできた題材は、牛、鳥、城、塔のへつり、紫陽花などであり、今は、古道にたたずむ野仏の素朴で感傷的な好情にひかれ、石仏を描き続けている。描いている自分の絵は、色が主で、いつのころからか、もも色が好きになり、青、青紫、藤色などの色調で、当然のように雰囲気的、女性的になる。フランスの画家、ボナールの「食卓と庭」や「地中海風景」を見ていると、どうして私の好きな色をこんなにうまく使えるのだろうと思う。ありふれた生活情景を描きながら、絵の具の燃えあがる感情、ハーモニーに満ちた画面構成にじっと見入ってしまう。
キャンバスに向かっても、なかなか筆が進まないときがある。そんなときは、しばしキャンバスを離れ、たいてい、画集をのぞくことにしている。イメージ、表現法、色調など、日本の作家なら、山口薫や森芳雄の日常的で牧歌的な雰囲気の作品に、感動を新たにして、またキャンバスに向かう。また、遠く車での通勤で時間がなかったとき、車窓のパノラマから、頭の中でスケッチし、タブローしながら、抱いたイメージをそのまま絵筆に託して行くこともあった。一日の終りに、キャンバスの前で、絵筆を握りながらいねむりの出ることもたびたびである。そんなことを繰り返しながらも絵筆を折ろうと思ったことは一度もない。けれども制作への意欲をつなぎ、年に一、二度は中央展や県展に出品し続けてこれたのは、先輩や周囲の支えや理解があったからであり、感謝している。また絵を通して、私に少なからぬ自信を与えて下さり、御自身は志を半ばして夭折された恩師、佐藤辰治先生への思いが働いているのかもしれない。これからも、日常の忙しさに埋没して、粗雑な作品に終ろうとも、いつの日か、じっくり自分の作品を見直す機会が訪れる日のために、壁を乗り越え、精進したいと思っている。
今、私の学級の子供たちは、いとも簡単に絵を描いて行く。毎日二、三枚は、くに子先生(私のことをそう呼ぶ)のことを絵にしてくれるK君、校舎平面図に色をぬり、各部屋に色名をつけて細かく描くのを得意とするN君。そして動物の絵なら、それぞれ思い思いに楽しげに描いて行く子供たちの絵を見ながら、なんとか童話風にまとまらないものかと思ったりするこのごろである。これからも、子供たちとともに驚き、感動し、泣き、笑い、そして、日常の触れあいの中から、子供たちの眼を通して見る新鮮さ、新しい発見に励まし、励まされながら、いっしょに夢を見続けて行きたいと思っている。
(会津若松市立第二中学校教諭)
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余暇をみつけて
環境の尊さ
藤舘 理孝
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昔から、ニワトリは三歩あるくと忘れるという。ブタは悪ものあつかいの意味に表現される。ウシは子供が横になって食べると牛になるという。各々の習性について観察してみると、ニワトリは、自然界においては警戒心が強く集団生活をいとなんでいるが、必要な統制をつくるために、本能的につづきあい、群における強弱の序列を決める。このことによって統制された集団生活がいとなまれている。ところが人間が飼育する環境によって、悪癖を覚え好奇心・欲求不満などからつつきあいは死にいたらせることもある。ブタは、先祖がいのししで、猟師だちはよく「ぬた場」を発見する。これは、土や泥、水によってからだを冷やして体温の調節をし、体表の寄生虫を払い落とそうとする習性で不潔を好むからではない。人間が飼育する環境によって、泥土のかわりに自分の排出したふん尿の上に寝ころんでいる。このしぐさをするため一般の人達は、ブタはきたないものと思い込んでいる。ウシは、温和で記憶力があるが、生きるため、牛同士が角をつきあわせて序列を決定し、ボスの行動にすべて従い群で行動する習性がそなわっている。
さらにこれらの動物の誕生の原点を探ってみると、ニワトリは生まれたら直ちに歩き出す。また、ブタは生まれてから三分前後で立ち上がり母乳を吸う。ウシは生まれてから約三十分前後で立ち上がり母乳を吸う。生れながらに生活の知恵をそなえている。人間の子供は、皆、生まれたときから立ち上がることができず「出発点はゼロ」であって、その後の成長段階の幼・小・中・高のどこかでつまずくために学習意欲に欠けたり、生活面に問題行動を起こしたりするのである。この責任は、親はもちろん、本人をとりまく我々の影響は大きい。動物を丹念に観察し調べると非常に学ぶことが多い。自然界における動物の規則ただしいルール、そして動物の種族間同志は決して殺し
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