教育福島0092号(1984年(S59)07月)-024page
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
合うことはない。これらの事例から動物の生活行動は人間以上の深みがあると思われる。
植物も人間も環境に左右されることに相違はない。例えば、温室で毎日潅水しているシクラメンを家庭に買ってきて子供に管理させたところ、子供は、三日に一回の潅水をした、一時は枯れそうになるが、そのうち順応されて、生き生きとしてくる。これも管理者である子供に慣らされた証拠である。シクラメンは管理者である子供に、つまり新しい環境に適応したのである。
「先生、どうせ、俺は頭が悪いから勉強しない」という、ツッパリ生徒が各学校に二・三人はいる。ところが先生が本気になって、きめこまかい指導と環境づくりをしてやることにより、徐々に学校生活へ適応されてくる。
身近かな家庭内の環境づくりが大切でこれを怠ると、家に例えれば、手抜き工事である。人生はバラ色と思い、「おもしろくない」という理由で登校拒否、これが一般の若者に波及しはじめている。離婚の増加がその一つではないだろうか。いわゆる性格不一致として処理され、自分達で問題解決ができないでいるケースが多い。
自然との交わりの中で、生涯教育をするすべての条件を備えている環境が農業高校にあると思う。どんなことでも自分はやれるんだ、という、「やる気、そして、「行動と実行」があれば自分の目標は達成される。明治初期に札幌農学校の教頭となったクラーク先生は北海道を去る時、あまりにも有名な言葉を残した。「少年よ大志を抱け」と大きな夢をもち、その夢について語り、夢の実現に行動せよといっている。高校生活を楽しく活気あるものにするには、動植物の行動や習性に見習い、環境づくりは、まず、家庭からはじまり、学校、そして地域社会へと広がることが生徒達の幸福につながるのである。
どんな難かしいことにも逃避せず立ち向かって問題解決のできる生徒を社会に送り出すことこそ教師の責任であり、魅力ある学校づくりにつながるものと思うのである。
(福島県立双葉農業高等学校教諭)
![]()
分校勤務の思い出
佐藤 敬
![]()
二十三年前、初めて教員として、へき地の0小学校U分校に赴任した。N駅に着くと、十二人の父兄が、笑顔で出迎えてくれた。風雪に耐えたくましく雪やけした彼らの顔を見た時、たのもしさを覚えた。すでに駅に着いている私の荷物をロープで背負って分校まで運んでくれるというのである。県道から、まだ雪の消えやらぬ山道を沢づたいに登っていった。心細さから、自然に私は寡黙になっていった。それを察してか父兄たちは、「先生、山の中でたいへんだけどがんばってくれや」「前の先生もよくやってくれたがら、だいじょうぶだべ、先生も若いがら」「住んでみっといいどこだから」などと、励ましや慰めの言葉をかけてくれるのである。
この父兄の言葉をありがたく思いながらも、私は強い不安をいだかざるをえなかった。教師といえばたった自分一人の分校で果たして前任の先生のように勤めることができるのだろうか、父兄や地域の人々とうまくやっていけるのだろうか、一年生から四年生までの複々式学級の指導をいったいどうやればよいのか、などという不安がつのるばかりであった。
着任した次の日から早速、悪戦苦闘が始まった。放課後子供たちが帰ったあと、一年から四年までの教科書と指導書を分校の自分の部屋に持ち込み、夕食をつくるのも忘れて本とにらめっこをする日がしばらく続いた。明日の一時間一時間の指導内容や授業の進めかたについて構想を立てておかないとその日の授業がうまくいかないのである。週案形式では毎日の授業に役立たないので、四個学年の計画が記入で去る日案形式のものをつくらないと間に合わないのである。日案作成が終わろと、次は子供たちに使わせる資料づくりをしなければならない。当時はまだ現在のようなコピー機械もなく、すべてガリ版で原紙をきり、謄写版で印刷をしなければならなかった。初めの一年間は、これらの仕事で精一杯で、他のことを顧みる余裕はあまりなかった。
幸いに子供たちは純朴で素直だっか実にもどかしい私の指導であっても、適切とはいえない課題でも黙々と取り組んでくれた。上級生たちは、自分の課題が終わると同じ教室にいる弟や妹たちの勉強の面倒を見てくれるのである。父兄たちも純朴で心のやさしい人たちであった。野ら仕事の行き帰りにも分校に立ち寄り、声をかけてくれるのである。このような子供たちと父兄
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |