教育福島0092号(1984年(S59)07月)-026page
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社会で学ぶ
鈴木 庄寿
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私が就職してから早くも4回目の夏が来ようとしています。3年前、毎日毎日部活動に明け暮れていた高校生活を卒業し、右も左もわからぬまま社会人として希望と不安でいっぱいの第一歩を踏み出しました。毎日の生活が単調になり漫然と暮しているときなど、折にふれてあのころの新鮮な気持ちがふと頭をよぎることがあります。
手足がやっと生えたばかりのおたまじゃくしが着任した先は、教育委員会事務局の中の社会教育課文化係というところでした。新採用職員研修も終わり、新しい生活が始まりましたが、やはりわからないことばかりでした。社会人一年生、わからないのがあたりまえ、聞くは一時の恥と片っ端から聞きまくりました。諸先輩も面倒がらずに丁寧に教えてくれ、仕事ばかりでなくいろいろな面で勉強になりました。ただ困ったのは、会議や外での仕事が多く、係も係長を含めて三人という小さな係であるため、時としてみんな出払っていて自分一人しかいないような場合が出る時です。このような時に限って急ぎの問い合せや照会があり、即答できずに市民の方などに大変迷惑をかけてしまったことが何度かありました、また、ここでの仕事は、デスクワークの他に遺跡の調査など外に出る仕事から舞台芸術の公演など、バラエティーに富んでいたので、やりがいがあり、興味深いものでした。人前で話をしたり、文章を書いたりすることが得意でない私にとって、仕事がらそういう機会が多いこの職場での経験は、貴重なものでした。これは今もって不得意なのですが……。
特に印象深かった仕事を一つ挙げるとすれば、遺跡の所在を調査し、報告書を作る仕事です。もちろん素人の私が調査するのではなくて、専門家の方にいっしょに行ってもらうのですが、大のおとなが二、三人で真冬の寒空の中、防寒服に身を包み山や畑を歩きまわるのですから、はたから見ればさぞ異様な光景であったことでしょう。そしてその調査結果を報告書にまとめるわけです。印刷・校正段階では毎日のように印刷所にかよい、休日返上で調査・整理した報告書が出来上がった時には、なんとも言えない感激にひたりました。もちろん、これも考古学の専門家の方達の協力があったからこそなのです。この方達とは職場が変わった現在でも行き来がありますが、このようなつながりは、いつまでも大切にしたいと思っております。
二年で早くも初めての異動を経験しましたが、異動といっても同じ教育委員会事務局内の異動であり、顔見知りの方ばかりだったので、すぐにとけこめました。仕事はといえば、学校施設の建設・管理等に関することです。学校施設を整備するということは、次代を担う子供達の学習の場、あるいは人と人とのつながりをつくる場をより良くすることですから、実に重要な仕事であると思います。
社会へ出て働らくようになってからまだほんのわずかな期間しかたっていないので、吸収すること、しなければいけないことが沢山あります。勉強やスポーツが仕事であった学生時代よりもむしろ今のほうがより多くのことを積極的に学ばなくてはならないのではないか、そんな気がします。"手足が生えたばかりのおたまじゃくし"の時の気持ちを忘れず、人と人とのつながりを大切にし、向上心をもって、まだくっついている尻尾がはやく取れるようにしたいものです。
(いわき市教育委員会)
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交流教育のこと
新田秀雄
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五月の日曜日、養護学校の運動会があり、わが校は全員で応援に出かけた。この時はじめて養護学校を訪問し、交流活動を開始したのである。運動会は何とも奇妙であった。あれで走っているつもりなのだろうか。ニヤニヤしてふざけているようだ。へんなかっこうで気持ちが悪い。などと子供達は思ったに違いない。
七月には養護学校の子供と一緒にプールで水遊び交流をした。養護学校の子供の中には、水をこわがって泣きわめく子や、先生にしがみついて離れない子など、かつて経験したことのない光景がそこにあった。
秋の山遊びには広場で手をつなぎ、輪になってゲームやダンスをした。両校の子供達の緊張が徐々にほぐれ、警戒心が薄れていくようであった。
何回か交流を重ね、一年も過ぎようとする頃、養護学校のN先生からお便りが届いた。"養護学校へ来て六年に
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