教育福島0093号(1984年(S59)08月)-026page
学校や職場を受ければいい。クラスの中では成績は互いにオープンで見せ合い、反省し、がんばること」を指導してきた結果か。ふたを開けてみると、思いどおりにいかなかったのは一人だけ。「やってくれた」というのが実感。
その彼等、毎年卒業後クラス会を開くが、参加者はいつも予想を超える。成人式の日、まばゆいばかりの晴れ着姿に、数段大人びた面を見、思わず自分の年齢を数えてしまった。そして同級会、「道徳の時間がつぶれるのが一番残念だった」と。「どうして」といぶかると、「先生の話は飽きなかったし、あの失敗談」みな大笑い。ずいぶん脱線したことを思い起こす。
最後に赴任した山間の学校。リスを教室に持ち込んだのを見て、リスの巣はどうすればみつかるのか、現場に案内させたり、蔵王に登って濃霧と寒さに遭難しそうになり、また、半田山頂で雷雨に襲われ、「立つな、低い所へ伏せて動くな」と大声でどなり、みなずぶぬれになって助かったり。霊山の西壁を直登させ、一人が恐怖のあまり動けなくなったのを、ロープで引きあげたり…。今にしてぞっとすること。
思えば、みな三年生担任の時だったのは不思議な気がしてならない。
今思うに、勉強に追いまくられ、精神的にもあせり、「灰色の青春」と口にする生徒の多い昨今、心のやすらぎ、「忙中閑あり」の「閑」は絶対必要である。しかもそれは、健全な「閑」であるべき……と。
学級を持たなくなって六年、なにか心にすきま風が吹きぬけるのを感じるのはなぜだろうか。
(桑折町立醸芳中学校教諭)
体験を通して
山内 徳次
今年も夏の訪れとともに、汗して動きまわる元気な子供たちの声が四方の山々に響きわたっている。
「ぼくは、野外炊飯でいろいろ学びました。その一つは、ごはんを作るときの大変さです。お母さんの作るのをみていて、かんたんにできると思っていましたが、思ったより何倍もむずかしいことでした」
これは、ある小学生から届けられた感想文の一部である。炊飯活動は、いろいろな意味で、子供たちにぜひ体験させたい活動である。それは、衣食住が人間性活に欠かせない基本要素であることにもよるが、作らなければ食べられないというきびしい状況のもとに子供たちをおいこめるからである。
材料をどのような手順でどのような方法で調理すればよいか。熱源になる薪をどのように扱えば効率的に使用できるのか。用具は何が必要であるか。おいしく食べるための盛り付けばどうするか。これらの仕事をどのように分担すればよいかなど、創意工夫をこらして経験させるという点で意義が大きい。
少年自然の家では、薪を燃料とし、ごはんは飯ごうでたかせている。このような経験の少ない子供たちのようすをみていると実にさまざまである。なたの使い方がわからず石の上で薪をたたいている子、たきつけの新聞紙を薪の下に丁寧に敷いている子、水かげんがわからずごはんをこがしてしまった子など、はらはらの連続である。事実、子供たちにとって困難な要素が多い。しかし、グループのリーダーを中心に声をかけ合い、確認し合って生き生きと活動している姿はたのもしい限りである。また、はためにはカレー汁にしかみえない料理でも、楽しそうに会食しているのをみるとき、結果はともかく、みんなで協力して作ったという満足感があらわれていて、つい言葉をかけたくなるのである。
食べ終わってのあと始末がまた大変である。次に使用する人のことを考えて、使用前よりもきれいにして返すという考えに基づき、使用した用具を洗い、数を点検して返納しなければならない。「ぼくたちの班は、スプーンが一個足りないのでさがしました。やっとみつかりました。ぼくは物の大切さがわかりました」この子は、スプーンを探すのに苦労したからにちがいない。
文化が発達し、機器を使い覚えた人間は、ややもすると手足を動かすことを忘れてしまいがちである。ボタンを押せば、どんなに難しい問題でも一瞬
うまくたけたかなあ−