教育福島0094号(1984年(S59)09月)-006page
“作品”としての授業、つくりを
−社会科授業の改善のために−
兵庫教育大学教授
星村平和
〔算者紹介〕
星村平和・ほしむらへいわ
昭和六年東京に生まれる。昭和三十一年、広島大学大学院文学研究科西洋史学専攻(修士課程)修了。昭和三十一年四月から昭和三十九年三月まで、広島県公立高校社会科教師を勤める。
ここ数年、「わかる授業」ということが問題になり、そのあり方や実践が問われている。しかし、その背景についてはほぼ共通の了解があるものの、そのなかみについては多様な受けとめがあるようである。「わからせる授業」との違いなど語義についての議論もあるが、原義的には「分析する」ことであろう。その意味では、理解には分析したり分類したりする手続きが必要であるといえる。したがって、「わかる」ためには、この分析する能力と総合する能力の双方が伴わなければならず、「わかる授業」は学習指導の原理ととらえることもできるのである。
しかしながら、社会科授業の実際には、依然として1)網羅主義、2)用語主義、3)教授主義の傾向が見られる。これでは、子供は受け身一方で思考の余地すらない。生の学術用語を駆使して、あれもこれもと教えている現実にまま遭遇するのである。しかし、これも教師の気まじめさによるもので一概に批難するわけにはいかない。そのことが、社会科としての教養水準を保持しているからである。問題は、その教養“知識の質である。既成の学問の成果を無批判に受け入れるだけでよいのか。子供が社会を認識するとはどういうことなのか。問われなければならないのは、これらの点であろう。
換言すれば、「わかる授業」を創造するということは、学習主体としての子供の立場に立って授業を構成するということである。そのためには、右にみた伝統的、固定的な授業観からの脱皮が必要で