教育福島0094号(1984年(S59)09月)-021page

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随想 ずいそう

 

シナリオ「おしん」から

染谷安彦

 

のロケにも使用されたという庄内米を収蔵していた山居倉庫など訪ね歩いた。

 

昨夏は日本中に「おしん」旋風が吹き荒れ、どこに行っても「おしん」の話題で持ちきりだった。「おしん」ブームもおさまりかけた先日、「おしん」の少女時代の舞台となった山形県酒田市を訪れる機会にめぐまれた。現在も明治時代の建物が残り、「おしん」のイメージが色濃く漂う酒田の町を「おしん」を想いながら、豪商の名残りをとどめる鐙屋邸や、大地主であった本間家本邸、「おしん」のロケにも使用されたという庄内米を収蔵していた山居倉庫など訪ね歩いた。

最上川上流の寒村の貧しい小作の子に生まれたおしんは、わずか七歳で凶作の年の口ベらしのため下流の町へ子守奉公に出される。大きな店だから奉公に行ったら腹一杯食えると父にも言われ、一年分米一俵の前渡しで奉公に出されたが、食べるものはやはり最後に残った一ぜんの大根飯と一杯の汁である。それまでのおしんは食うや食わずの極貧の中でも、肉親と助け合って生きてきた。しかしこの時からおしんは他人の中でのさまざまな苦労を味わうことになる。

小さなおしんがあれまでに奉公先でのさまざまな苦しみに耐えることができたのはなぜだろうか。しかもおしんには、ただ辛抱するばかりでなく、昼食をぬかれ、子守をしながらでも学校に通って勉学しようとする意欲があり、自分が困っていても周囲の人々へのいたわりと思いやりの気持を忘れないやさしさがある。

わがまま勝手で冷淡にも思われるが一家の柱として、凶作の難局を乗り越えようと努力する父、自分は食べなくともしゅうとめや子供達に食べさせようとする母、働けないからと食べることを遠慮するしゅうとめ、弟妹を気づかう姉達。極貧の中でもこのような肉親の愛に包まれた生活体験の中でおしんの精神は培われたのではないだろうか。

おしんの辛抱強い、相手を思いやることができる気持ちは、第二の奉公先加賀屋で認められ、奉公人としては、幸せな青春時代をすごすことができるのだが、シナリオ「おしん」の序の中に次のように書かれている。「ひろく明治、大正、昭和と激動の時代を生きぬいてこられたかたたちの人生史を知り、そのかたたちの生きざまを通じて、私たちが見失ったものをみつめ直したかった…“おしん”という名もない女性の一生を描くことで、今、私たちが生きるための指標を探れたらと願っている」

さて、現在の子供達は家庭でどんな生活をしているのだろうか。ある調査によれば、半数以上の中学生は家庭で仕事らしい仕事は持たされていないという。また、半数近くの生徒は家の収入を知らないで生活しているという。生徒達と話していて、父母が会社でどんな仕事をしているかわからないという生徒が多いのに驚いたことがある。家庭の中で、一人一人の個性が尊重されることも大切だが、子供達が家庭の中で何の仕事もせず、父母がどんな仕事をしているかもわからなくては、他人の苦労もわからないだろうし、他人へのいたわりも生まれてこないのではないだろうか。困難に耐え、自分の目標に向かって着実に努力する子供、そして、自分のことだけでなく、相手のことを思いやることができる子供を育てるためにはどうすればよいのだろうか。

旅というほどのものではないが、「おしん」のふるさと酒田を訪ねたのを機会に、シナリオ「おしん」を読み、いろいろと考えさせられた。

(下郷町立下郷中学校教諭)

 

あたらしき背廣

黒木睦子

 

「旅」ということを考える時、私はいつも、未知へのあこがれとか、人生への憧僚の情とかいったものを思う。

旅を表現する言葉をいくつかあげて

 

昔の面影の残る山居倉庫

昔の面影の残る山居倉庫

 

 

 


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