教育福島0095号(1984年(S59)10月)-028page

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なかった」という答えが返ってきた。

そこで、せっかくの機会だから埋もれている昔話を堀り起こし、自分たちで印刷製本し、学習発表会で発表しようという話がもちあがった。子どもたち一人一人が、家の祖父母から一つずつ昔話を聞いて寄せ集め、編集しようというのである。

「先生、うちのばあちゃん昔話いっぱい知ってるって言ってたよ」

「先生、うちのじいちゃんは、お父ちゃんたちに話してやったことあるって言ってたよ」

次々に子どもたちから反応が返ってきた。これまで、「じいちゃんが」とか「ばあちゃんが」という言葉を子どもたちの口から聞いたことが何回あっただろう。

全戸数五十戸余りのこの部落のほとんどは、三世代が同居している。しかし、大家族の良さを生かして、世代を越えて対話できる機会はほとんどないように思える。祖父母が、あるいは父母が、子や孫に語り継ぐべき話題があることを忘れてしまっているのではないかと思う。

集まった昔話は、私の期待をはるかに上まわるものであった。

「高力山の龍の話」「与吉鉄砲打ちの話」「ばけいたち」「茂助稲荷」「なかなかの議論者がきつねにばかされた話」「大滝の上人塚」等々祖父母あるいは父母との対話から、これだけの貴重な昔話が堀り起こされたのである。

学習発表会の当日、部落のほとんどのお年寄りが見に来てくださった。ステージの子どもたちと観客席が対話をしているかのような雰囲気が感じられた。

祖父母から昔話を聞くという行為を通して、世代を越えた対話が生まれ、さらには、文化や生活の知恵に至るまで家族の中で子どもたちに受け継がれるべき事柄が多いことを再認識した。

それにしても子どもと同じ目の高さで話を聞き、話をする大人が何人いるだろうか。

忙しさにかまけて、子どもたちの興味や好奇の目をふさいでしまってはいないだろうか。

現代は、対話のない時代と言われている。しかし、祖父母が孫にしてやれること、父母が子にしてやれることは必ずあるはずである。家族の中の対話から子どもたちの人間性の基盤ができるのではないかと思う。

(西会津町立黒沢小学校教諭)

 

初秋。−川は綺羅めき、遠い祭りのざわめきを川面に静かに浮かべて流れる。白い砂利道の土手を降りると、小さな森に囲まれて陶芸家の住いがある。師の作風は素朴で雅趣に富み、見る者の心を深くあたためる。

師のもとへは教えを乞いに門を叩く者が多い。今日も益子焼きの後継者や町の陶芸教室に通うという若い女性が訪づれた。ふと見ると、師の作品を手にする彼女の姿は、器のもつ温かみと彼女の憧憬の心で津然として自然の風景画をなしている。たとえ趣味の世界であっても、真摯な姿は彼女に巧まざる美しさを与えている。憧れは人を優しく、ひたむきさは人を強くするのだろうか。

 

朝のあいさつ。

 

朝のあいさつ。

坂本達夫

ている。K児やM生などは出迎えに出ている先生一人一人に挨拶して回っている。

 

「おはよう」と玄関に出迎えた先生にどの子どもたちも笑顔になり大きな声で挨拶をしながらバスから降りてくる。それから、担任の先生を見つけて、もう一度挨拶をしている。K児やM生などは出迎えに出ている先生一人一人に挨拶して回っている。

いわき養護学校の朝は、子どもたちと先生の「おはようございます」「おはよう」の挨拶からはじまる。

子どもたちは、みんな明るく元気に大きな声で挨拶をする。

子どもたちの九十八パーセントが二台のスクールバスで通一字している。バスの中では、中学生が小学生の面倒をよく見る。みんな仲の良い友達である。遠い子どもは二時間以上もかかる。しかし、どの子どもたちも通学の疲れも見せずみんな明るく元気に登校してくる毎日、親のいる温かい家庭から通学できるしあわせをからだ全体で感じているからであろう。

私の学校で、着替えは学習の中で重要な位置を占める。ひとりで着替えさせると、前後を間違えて着たり、裏返しに着ていることがある。また、間違えないで着替えられても、下着の裾が出ていたり、えりがおかしかったりする。特に低学年では、ひとりで正しく着替えられる子どもは少ないのである。履き物の左右、下着の前後、衣類の表裏、重ね着の順序、ボタン、スナップ、ファスナー、ひもで結ぶなど覚えなければならないことがいっぱいある。着替えをするとき、親や教師がそばでひとつひとつ指示して教えなければ身に

 

 

 


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