教育福島0095号(1984年(S59)10月)-029page
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つかないのである。そこでA児やB児たちが簡単に着替えられるような衣類を家庭にお願いして正しく着替える訓練をはじめた。はじめは、なぜ注意されるのか理解できなかった。しかし、何度もやってみせているうちに、いろいろなことに気付き、着替えるときに気をつけるようになってきた。毎日、ひとつひとつのチェックが子どもたちへの称賛になり、たのしく訓練をつづけることができた。
子どもたちの心からの挨拶は本当に気分がよい、朝の気だるさなどを吹き飛ばしてくれる。また、私たちの職場を明るくしてくれる。
家庭と協力して、一日も早く挨拶や着替えなどができ、ひとつひとつ身のまわりのことが自立できるような子どもたちに育ってほしい。
(県立いわき養護学校教諭)
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おはようございます。と元気にあいさつ
プロヘの道
佐久間俊隆
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○私を支えた三つの出合い
●担任の先生 昭和二年から六年まで、小学校五・六・高一・高二と四学年の担任、たしか新卒の先生だったが、生きていく力をつけていただいた大事な先生である。
私が教師を選択する事になったのも師範学校への進学について先生の強力な親への説得があったからである。
次に、教師としての私の姿勢も、ほぼ先生の影を歩んでいると自覚している事である。その一つは、子どもと共にあれという事である。思えば先生の下宿を我が家同然にして、心身共に厳しく鍛えていただいた。後に、私の「在生徒而在教師」との座右の銘も、正に先生の姿そのものなのである。その二は、学習指導法で、徹底した自発学習法だった。国、算、歴、地の四教科は「各科の研究」という参考書を各自に持たせて自由研究と称して、各科、題目毎に、西洋紙に万年筆で調べた要点をノートにしていく。授業は、各自の研究をもとに発表し、討議で確め、要点は先生がまとめるといった、今各学校で主題としている「自ら学びとる学習」そのものだった。研究進度は毎日先生が点検され、桜花に優・美・良・可を刻したゴム印で奨励されるのが楽しみで、私などリンゴ箱を机に、夜は十燭光の電灯を、家の人の夜業から分けてもらって夜ふけまで勉めた。宿題意識は全くなかった。この指導法は私のプロヘの道の一貫した命題となった。
●教生の時の訓導 昭和十三年教生は男子部附属六年女子組。当時六年は受験生で、毎日弁当を二つ持参し、夕刻にも弁当を食べて勉強した。偏差値がどうのなどということを超越した意欲的な取り組みであり、教師の熱情も激しかった。担任の訓導は算術科主任で、当時文部省が世界に誇る教科書として、緑表紙の算術教科書を発行し、術よりは、思考力を伸ばす算術教育の新思潮の中で、先生は特に珠算指導の研究の権威者として、ラジオ放送を通じ、一本指運珠法の効用について、広く教育界を指導された事は余りにも有名である。後に私も附属小以来算数教育に意欲をもつようになったのも、先生の影が大きいのである。
さて、三月卒業して、新任校の辞令を受けた時、訓導の先生も同じ学校の首席訓導として発令になり、引き続き三年間新卒教師の姿勢を学ぶことができた幸せは、私のプロヘの道に大きな力と自信を身につけたことになる。
さらに奇しくも、昭和二十四年男子部附属小より転出を希望した際、県視学から現場校長になられた小学校で、三度目の出合いに恵まれた。ここで教頭経験八年の間に、校長の科学的、合理的、創造的な学校経営の実際、強固な信念と誠実で人間味豊かな人格で、信頼を一身に集められていた実績は、その後の私は勿論、多くの教育者に大きな影となって、それぞれ立派な学校経営者として現に大活躍中なのである。
●初任地校の校長 短期現役兵が除隊になり、昭和十三年九月、私にとって教師として「プロヘの道」のスタートとなる。着任して通された校長室の壁面に、白絹地に雄渾な「魂」の文字旗が貼られていた。威厳のある格調の高い風格の校長先生だが、微笑されると布袋さんのような親しい容姿となられる。私を名指して、開口一番「君、教育とはな、子どもの一人一人に、生きる魂を彫刻する仕事なんだよ」と訓された。一瞬ドキッとして、恐ろしい仕事だと覚悟した。爾来私は、教諭時代、教頭時代そして校長から教育長を経験して退職を迎えるまで、私の「プ
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