教育福島0095号(1984年(S59)10月)-030page

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ロヘの道」のバックボーンとして、いつもこのお訓しを温めてきたのである。

 

○古くて 新らしい道

 

昭和十三年師範卒、本科正教員の免許状で、教師のプロヘの道に門出した。十六年に本物のプロを目指して専攻科に学んだ。教諭士二年のうち学級担任七年、教頭一校八年、指導主事四年、校長五校約十五年、行政職四年と通算約四十四年、常にプロへ一途の、厳しくも楽しい追究の道だったが、遂にプロには成れずじまいだった。今懐しく振り返り、それは「古くて、新らしい道」だった。今尚学校では「自ら学びとる学習」を主題に研究が進められているなど正に私が一貫して歩み続けた命題でもある。子どもを宿題意識から解放し、自発的学習態度を育てて欲しいと思っている。

(前郡山市教育長)

 

遊びたい

高木啓子

x憩の時間になるといつも声をかけにくるR子。しかし、いつもわたしの返事は、

 

「先生、今日は遊べる?」大休憩の時間になるといつも声をかけにくるR子。しかし、いつもわたしの返事は、

「ごめんね。……してしまうから」五年生から担任していて、何回一緒に遊んだことだろう。こんなことで人間味のある子ども、人と人とのふれ合いの大切さを身につけさせることができるのだろうかと苦悶の毎日である。

夏休みに入り、少し心のゆとりがでてアルバムを開くと、電柱で作った遊具で遊ぶ子どもたちの写真が目についた。小名浜西小学校で二年生を担任していたときのスナップである。電柱を電力会社より頂き、全職員と保護者の協力で作り上げたもので、顔や髪にまでペンキを塗ってしまいピエロのようにおどけていたY先生が目に浮かぶ。

いろいろな遊びを考え出した電柱平均台。一番高いところは二年生の背丈の三倍近くもあった斜め電柱。初めはこわごわ渡っていた子どもたちもすぐに慣れ、すいすいと渡って飛び下りる。「先生も渡ってみな。おもしろいよ」前と後ろになって手を引いたり、体を支えてくれた小さな手のあの感触、あのひとみ。

憶病で、いつも友達のやるのをじっと遠くから眺めていた丁子も、電柱に近づいてきて渡り始めた。真剣そのものの顔、震えている足。見ないふりをしてじっと見詰める子どもたち。渡り終わったときのみんなの大きな拍手。自信がついたのか、斜め電柱にも挑戦。一番高いところまで渡るが飛び下りることはできない。自分で安全と思うところまで後ずさりしてドンと飛び下りる。そのときのうれしそうな笑顔。年も忘れて子どもたちと夢中になって遊びながら、いつも自分の可能性を信じ、全力を尽くしてなにかをやり遂げることの本当の楽しさ、友達とのふれ合いの楽しさを体得させていたように思えるあの頃。わたしにとっても充実した毎日だった。

当時も今と同じようにいくつかの体育的行事があった。残念ながらこの学級に優勝のチャンスを与えられたのは、最後の行事、マラソン大会だけだった。「これだけは!」無言のうちにみんなでファイトを燃やした。寒さのひどい日も通学路の坂道に、土手に、「ファイト、ファイト」の声が聞こえた。

マラソン大会の日、空はどんよりと曇って寒く、霜解けのひどい日だった。歩いただけでズックの底には五センチほども泥がついた。これでは走れない。「ズックが重かったら、はだしで走れ!」(ひどいことをいってしまった。しかし、だれもはだしになどならないだろう)そう思っていた。五十メートルも走らないうちにほとんどの子がズックを脱いで走った。

一人一人の靴下を洗いながら、「風邪ひかないでね」と真っ赤になった足を見つめながら祈るように声をかけた。目頭が熱くなり靴下がぼやけた。次の日、全員元気に登校、優勝の喜びをかみしめたのだった。

私にとって「未来をひらく心豊かなたくましい子」の育成はとても大きな目標である。子ども同士はもちろん、子どもと教師が思いやりをもち、心のふれ合う日々をすごすことや、目的意識をもって根気強くがんばることを体験させる等、目には見えなくても一歩一歩目標に近づきたいと念じている。

R子が、あきらめないで、「先生、今日は遊べる?」と、声をかけてくれたら、どんなことがあっても遊びたいと考えている。「Rちゃん、遊ぼうね」………。

(いわき市立錦小学校教諭)

 

遊びに興ずる子どもたち

遊びに興ずる子どもたち

 

 

 


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