教育福島0095号(1984年(S59)10月)-033page

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聞き、少しずつではあるが不自由を感じなくなってきた。

私達が、言葉で、四苦八苦しているとき、暴君は、彼なりに活発に遊びながら、さくら組の一員として、子どもたちの中にとけこんでいったのである。

しかし、その子どもたちの生活には、難しい中国語などでてこない。賽君にしても、難しい日本語など、あまり話す必要もないのである。子どもたち同士を結びつけているのは遊びなのである。遊びながら暴君は片言の必要な日本語を話している。私はこんな子どものようすを見ながら、子どもの生活とはいったいなんなのか。「子どもの生活イコール遊び」と言われているが、遊びの重要性について、いまさらながら深く考えさせられた。柴谷久雄著「遊びによる人間形成」(保育の哲学)には、遊びの重要性が書かれているが、賽君との出会いが契機となって、私はこの本を読み、遊びのもたらす影響や遊べない子どもが多くなったと言われている今日的な幼児教育の問題などについても深く理解を得ることができたような気がする。

賽君一家は、父親の仕事の都合で、原町に転居した。たった二か月余りの在園であったが、私の心に強く印象を残して‥‥。現在、賽君は仙台市に移り元気で小学校に通学している。今でも年賀状で父親から近況が知らされる。

(大玉村立大山幼稚園教諭)

 

印象ぶかい王安君

印象ぶかい王安君

 

基礎・基本が大切

高畑睦雄

、剃りを入れ、髪を染め、肩いからすツッパリに変身してしまうのであろうか。

 

中学生時代が、心身ともに激変する時期であるとはいえ、入学当時のあの可愛らしい子どもたちが、なぜ、人に嫌われる毛虫のようになり、黙して語らぬ無気味なサナギにかわり、あれよあれよと言う間に、剃りを入れ、髪を染め、肩いからすツッパリに変身してしまうのであろうか。

マスコミや評論家のように、社会が悪い、家庭教育に責任があると論ずるのは簡単だが、それで学校や教師の責任が回避され、変身した子どもたちが立ち直ってくれるわけではない。教師自らが、正しい人間観の上に立って真剣に生徒指導に取り組んでいるか、他人の心の痛みのわかる教師であるかと、謙虚に自問自答する中から、明日からの子どもたちとの心のふれ合いの糸口を見い出すことの方が先決だと思うのだが、相変らず対岸の火事のような意識や取り組みが見られる現状では、ツッパリがはばたくのも無理はないのかも知れない。

変身と言えば、本校の相撲部が福島県代表として全国大会に出場し、ベスト十六に勝ち進むという好成績をおさめることができた。帰校した部員たちは、一学期とはうってかわり、自信に満ちた顔で、落ち着いた学校生活をおくっている。これは、良い方に変容した事例であろうが、それまでの経過の中で教えられたことは、基本と訓練が如何に大切かと言うことの再認識であった。

連日三十度をこす真夏日の中で、顧問教師と部員たちの文字通り裸と裸のぶつかり合い、汗と砂にまみれて基本技を繰り返す毎日が続いた。基本の大切さを教える顧問教師の言葉を、一言も聞き逃がすまいと、耳をすます真剣な顔。教えに深くうなずくと、また顧問教師の胸元目がけて、頭からの激しい当たり、突き、押し。それを厚い胸で、がっちりと受け止める教師。師弟同行の中で一人一人に適切に与えられる実にタイミングのいい注意や指導。そこには本物の生徒指導が展開されていたのである。それを見て、先生方や全校生徒が、何を、どう感じてくれたであろうか。プラス、マイナスの行動を問わず、それらを目の前にしながら、気づけない教師にだけはならぬよう、常に研修に努めたい。

子育ての諺に「可愛いくば、二つ叱って、三つほめ、五つ教えて、よき人にせよ」とある。

先人が、長い年月をかけて得た生活の知恵とも言える諺は、さすがに含蓄の深いものが多い。子どもたちとの毎日のふれ合いを、この諺と重ねてみると、指示や注意、叱り言葉だけが多く、心にひびく言葉など探しても見つからない。特に基礎基本をしっかり教え、理解させ、身につくまで訓練させるという、それこそ基本的なことが、あまりにも少ないことに偶然とするのは、ひとり私だけであろうか。ともあれ、鉄は熱いうちに打てという諺もある通り、中学生の今、子どもたち一人一人に心豊かなたくましい人間になるための基礎づくり、土台づくりをしっかりさせなければ、人生八十年の時代を生き抜く力など身につくものではあるまい。

「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」

いつまでも、子どもたちとともに成長できる教師でありたいと思うこのごろである。

(田島町立田島中学校教頭)

 

 

 


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