教育福島0096号(1984年(S59)11月)-007page

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〔筆者紹介〕

 

氏名  石河 清・いしかわきよし

 

昭和三年、いわき市湯本町に商家の長男として生れる。磐城中学より日大芸術科映画学科に入学。のち、国立音楽大学入学、三十年卒業と同時に県立福島高校に勤務、県内高校音楽教師を経て四十三年、郡山女子大学短期大学部音楽科に勤務、その間、全日本合唱コンクール課題曲に、三十六年・三十七年・四十二年と三度入選、作品も二百曲にのぼり、県内外の校歌や社歌も百曲になる。三十四年より平FG合唱団を創設、三十五年には平おかあさんコーラスを指導、四十七年よりコールマミー小名浜を指揮している。又、四十七年、四十八年には福島県合唱連盟理事長となり、再度五十四年より現在迄、理事長の職にある。五十九年より全日本合唱連盟常任理事となり東北支部長を兼ねている。又、いわき市文化団体連絡協議会副会長、いわき市文化振興委員、日本著作権協会員でもある。

 

現在

郡山女子大学短期大学部音楽科助教授

いわき短期大学講師

福島県合唱連盟理事長

 

能力は各自によってすべて違う。この認識にたってすべての階層と無数の職業にその能力を活かせる社会と職場をつくりあげる努力が必要ではなかろうか。大会社の管理職が偉く、大工さんは偉くないのでは絶体にない。大工は大工として社会になくてはならない存在、その専門家性は貴重なプロなのである。人間はその上にたって美しいものへのあこがれがあるはずである。

野に咲く一輪の花に生命をみ、空や海の自然に畏敬し、美しいものは「きれい!」と素直に感動出来る感情表現、音楽に涙し、文学を愛し、美術を創造する努力をほめ、演劇や映像文化の機微にふれ、笑い、怒り、喜びあい、そしてまた、家庭の中の対話と挨拶こそ豊かさへの一灯であると思う。

衣・食・住の充ち足りた便利さだけの生活では人を愛することは出来ない。無感動、無気力な若者の多くの現象は何処からくるのであろうか、飽食のあとにアフリカの飢餓をみ、飢餓のあとに日本の豊作を思う。飽食のあとに人間としての礼節は何処へやら……。宮沢賢治の精神を想うことである。着ることに心を寄せ、食べることに感謝し、住むことに人は安心をおぼえ、相手を理解し、友情を大切に、優しさの中に人を思いやる心のゆとりなど、今こそ教育とは何か、芸術とは何か、そして心の豊かさとは何か、学校教育も社会教育も行政も民間も一体となって推進せねばならぬ文化的事業でもある。音楽堂の建設も善し、美術館・博物館建設も善し、その建物の目的にいかに心を入れるか、建物を知るか、根源の目的を理解できるか。みるもの、聴くもの、考えるもの、感ずるものそれはすべて人によって決せられるものである。物も心も一体になってこそ有機的結合は達せられるものである。

物は人によって活かされ、人は心によって価値づけされる、今、繁栄の中で真の心の豊かさを訴えるのも平和な国の平和な時代の提言なのかも知れない。

 

提言

 

 

 


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