教育福島0096号(1984年(S59)11月)-023page

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随想 ずいそう

 

ふるさと考

鈴木 泰一

 

とができるならば、これは紛れもなく懐しい「ふるさと」の写真なのである。

 

今、私の手許には数葉のスナップ写真がある。それは、「昼下りの無人の国電駅ホーム」「鉄道線路を跨ぐように小高い緑の山に向かってのびている陸橋」「くの字に続く街なみに沿って流れる川」など何の変哲もないただの風景写真であるが、私にとっては、「ふるさと」を象徴する写真なのである。それは、今年の夏休みに撮影したもので四十年ぶりに訪れた「ふるさと」の風景の一部だからである。そう、「ふるさと」が「生まれ育った土地」と定義づけることができるならば、これは紛れもなく懐しい「ふるさと」の写真なのである。

私は、長いこと、自分の脳裏にこの三つの風景を思い浮かべてきた。この風景以外に記憶がないのは、私が疎開という形でこの土地を昭和十八年に離れたためであり、当時、小学校三年生(国民学校と言ったが)だった私が、一番多く遊んだ場所、遊びに通った道だからにちがいない。そんなにも懐しい土地に四十年あまりも足を踏み入れなかったのは王子という土地が北区という東京の片隅にあり出張など上京のついでに寄るには遠すぎたせいである。それに、十年ぐらい前から、上野へ行く車窓より、ホーム、陸橋、飛鳥山公園を瞬時ではあるが昔のままの姿で見ることができ、当時を偲べるとわかったからであった。だから、いっかは訪れ昔の思い出をたどることができると思いながら、年を経てきた。ところが今年の二月、視察で上京の折、車窓から見たところ、東北新幹線の工事が大宮から上野まで延びるため当時の様子が変ろうとしていた。私のふるさとへの思いのつのりは、もうどうにもならなくなった。そして、夏休みには、ついに、四十年ぶりのふるさと行きを実現させたのであった。

京浜東北線で王子駅に降り立ったときの感激は、今も忘れることができない。最近、感激することなど忘れかけていた自分が信じられないくらい夢中でシャッターを切っていた。気がついたときは三十六枚を撮り終え二本目をセットしたのは三十分間だったことをみても、その度合いがわかる。

駅の改札口を抜け石段を駆け上がるとそこが跨線橋、飛鳥山へ一直線に続く。思ってたより、ずっと短い。もっと大きい印象が残っているのに。

下を通る蒸気機関車の煙の中へ駈けこんだことが鮮かによみがえる。一緒だった足の悪いT、裏の家のひょろりとのっぽのSなど同級生たちは今、どこで何をなどなど。当時の我が家の道(川沿いの道)をたどって見たが、途中までで道がわからなくなった。もちろん、私が住んでいた家などあろうはずはなく、しかも、当時は戦争がなやかなりしころ、私が疎開した三か月後に空襲にあい焼失したというがたずねるすべはなかった。

むしろ、当時の面影を残す場所が三か所もあったことでよしとしなければならないのかもしれない。しかし、さんざん歩きまわって残ったものといえばむなしさだけであった。

あれほど憧れていた土地を訪れ、涙の出るほど感激したのもっかの間、淋しさと疲れが一気におしよせてきた。こうして、私の二日間にわたる「ふるさと」行きは終わった。いくら、生まれ育ったとしても、風景こ懐しさがあったとしても、そこに、親や兄弟、友や師など、人と人とのつながりが皆無であれば、それはもう「ふるさと」ではない。折しも旧盆、その絆を持った人たちが帰省ラッシュにもめげず一路ふるさとへと民族大移動をくり広、げている。

(東和町立下太田小学校教諭)

 

体力つくりは人間つくり

荒川 俊一

 

とって、心を開いて子どもたちと触れ合うことのできる大切な時間でもある。

 

秋空にくっきりと浮かぶ小野岳に向かって大きく深呼吸をする。すがすがしい朝の涼気を胸いっぱい吸いながら準備体操をする。すでに五人、十人と早く登校した子どもたちが走り出している。私も負けじと軽快に(と自分では思っているが)走り出す。「おはようございます」元気な朝のあいさつが飛び交い、人数がだんだん増え、やがてグランドは子どもたちでいっぱいになる。朝のマラソンによる一日のスタートである。と同時に、子どもたちと接する時間に限りある私にとって、心を開いて子どもたちと触れ合うことのできる大切な時間でもある。

私たちの学校が文部省より“体力つ

 

 

 


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