教育福島0096号(1984年(S59)11月)-024page

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くり推進校”の指定を受けて、半年が過ぎようとしている。その間、先進校の研究成果に学び、先達のご指導を仰ぎながら、「この地域に住み、この学校に学ぶこの子どもたちにとっての体力つくりは、どうあればよいか」手さぐりの日々が続いている。

校内ではいろいろな試みが始まっている。父兄の協力を得て、全員竹馬に乗り出した。こわがって足もかけられなかった低学年の子どもが平気で乗れるようになり、高学年は、いろいろな乗り方を工夫し出した。先生方からは「竹馬挑戦カード」や「竹馬リレー」の提案も聞こえてくる。

縦割りグループが作られ、業間体育や創意の時間の中でさまざまな活動が組めるようになった。今のところは教師主導の活動が多いが、やがては子どもたち自身の計画による、自由で変化に富んだ遊びへと発展させたいものだと先生方と楽しく夢を語り合っている。

これらの継続的な取り組みにより、子どもたちの体力が徐々についていくのは確かなようである。しかし、いったい“体力づくり”とは何であろうかと、ときどき自問自答してみる。私たちの目指すのは、単に子どもたちに体力をつけてやることばかりではなく、体力つくりを通して自他を思いやる豊かな心を育てることではないのか、と、この自問自答を、私は、私たちの研究推進の活力源とし、時には潤滑油にしたいと考えている。

四年生のM子は、幼い頃の事故により片足義足である。不自由なその足で、マラソンも竹馬もみんなといっしょにがんばる彼女の姿を見ると、私はいつも胸があつくなる。

ある日、業間体育で、四年生以下の縦割りグループによる折り返しリレーが行われ、M子のグループでもんちゃくが起きた。「M子が出るとリレーに負けるから休め」という声が出てきたのである。私ははやる心を押さえて、子どもたちのなりゆきをうかがう。だれもM子の気持ちを確かめようとも、かばおうともしないで、M子をリレーから抜かすことに決まった。たまりかねた私は、みんなといっしょに走りたいM子の気持ちを確かめ、そういうM子を励まし、助け合っていくのがグループの仲間であることを説いた。子どもたちはすぐわかってくれ、涙ぐんで謝る子どももいた。その後、M子にかかわるもんちゃくは起きていない。

体育的活動に取り組んでいく時、私たちはよくこれに類似した場面に出くわす。もんちゃく大歓迎、私たちはこのような場面を見過ごすことなく、大事に取り扱っていきたいと思う。

二年生のS男は体育が苦手で、特に鉄棒はさか上がりができずに苦しんでいた。そして、明朗活発な彼がだんだん沈みがちになり、ついに体育のある日に休みをとった。担任の先生は何度も父母と話し合い、S男を生かし伸ばす手だてを模索した。しばらくして、子どもたちのいなくなった校庭で父といっしょに鉄棒にしがみつくS男の姿を見かけるようになり、学校では、汗びっしょりになって練習に打ち込むS男と、そんな彼に夢中になって声援を送る級友たちの姿を何度も見かけるようになった。そして、ついにある日のこと、彼は私を鉄棒のところにつれていって、ぶかっこうな、しかし真剣な彼のさか上がりを見せてくれた。その時の得意満面な顔を私は忘れられない、

私たちの体力つくりは、M子やS男のような体力の劣る子、体育の苦手な子に常に暖かい目を向け、一人一人の能力や個性を大切にした指導でありたい。そして、「体力つくりは人間つくり」を合い言葉として、地に足のついた研究にしたいと念願するのである。

(下郷町立江川小学校教頭)

 

読書と私

佐藤 郁夫

 

在の仕事上、時間を選んだり、待っていたりするゆとりなどはまったくない。

 

授業中とはうってかわって、トーンの高い子ども達の話し声がこだまする休み時間の教室。また、給食の配膳を待つわずかな時間にも好む本に読み耽る子ども達の姿は美しいと思うし、その境地をわが身の読書と比べてうらやましく感じ、しばし見とれてしまう。「読書三余」と言う。読書をするのに適当な三つの余暇。すなわち冬、夜、陰雨の時ということだが、現在の仕事上、時間を選んだり、待っていたりするゆとりなどはまったくない。

日常、私の書物に接する内容を分類してみると、専門職として読むもの、趣味としてのもの、それから娯楽と三つになり毎月の量はかなりのものだが、いわゆる「読書尚友」というものからほど遠い内容となっている。

職業上、教養や技術に関するもので配送されてくる月刊誌は数冊あり、すべてに目を通さないにしても大変な量の活字に接しており、その他、必要あって開く本の種類も少なくない。

趣味に関する書物は(人それぞれに価値観の違いがあり、その内容を述べてみても必ずしも共感は得られないことなので挙げないが)いわゆる、読書三到の言葉の当てはまる読み方をしている私である。

娯楽としての主流は推理小説、三冊の週刊誌、娯楽小説集であり、図書案内等で興味を持ったものをその都度買い求めているが、これは、家内と共通なものである。推理小説などはもうかなりの冊数となりひとつの書架に余りあるほどになっている。

家内と共通なものと書いたが、正確

 

 

 


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