教育福島0096号(1984年(S59)11月)-029page

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といっしょに実力を蓄えることができるかわかりません。しかし、少なくともこの本は私にとって「ほんものの教師」について深く考えさせ、また、教師という人生のレールに、生きた道しるべを築いてくれました。この教師像に向かって努力していこうと思っています。

(小野町立小野中学校教諭)

 

教育雑感

遠藤 景芳

 

一、宿直室が懐しい

 

一、宿直室が懐しい

私が奉職していた頃は、宿直勤務を当然のことのように思っていたし、また、宿直室に親しみを持っていたことも確かである。なるほど、宿直は教師にとって教育本来の仕事ではないかも知れない。しかし、宿直室は様々なエピソードを生み出した場であり、非公式ながらも教室とはまた、ひと味違った教育の場でもあった。

父兄や卒業生が訪ねて来て、夜遅くまで本音を出して語り合ったり、教室では限界のある生徒との心の交流を深めることができたというような事例は数えきれないほどあったように思う。

現在、全国の九割以上の学校では、教職員による宿日直が廃止されているという。教職員の負担軽減、安全管理の徹底などの利点はあろうが、同時に学校から人間のぬくもりが薄らぎ、教育の機能が一つ失われたことを惜しむ一人である。

二、賢母への道

「子どもの心に、永遠に残る親子の対話の場は、親のうしろ姿にある」

これは、高田好胤先生の言葉である。親の姿を子が学ぶ、すなわち、うしろ姿の教育を説いたものである。

ところで、現代のママさん方はどうだろうか。あまりにも理屈で子どもを脱けようとしていないだろうか。口で言い聞かすことが、教育だと思っているのではなかろうか。

子どもを大成させる賢母の条件として、次の五項目が挙げられている。

一、しっかり者、はたらき者。

二、信心深い。

三、寡黙で心やさしい。

四、質素倹約を旨としている。

五、陽気で明るい性格。

現代の母親像をこれに対比してみると、どういうことになるだろうか。

社会学者として知られる、見田宗助氏が、「日本の近代化を成功させた力の一つに、日本の母の存在を挙げなければならない」と力説しているが、その日本の母とは、前述の賢母を指しているのではなかろうか。

三、非行問題

私が町長職に在った時、「少年を非行から守る日」の行事として、中学三年生全員と対話集会を持ったことがある。男女合わせて十数名の生徒諸君が非行問題について意見を述べたが、大人に対する不信、批判、要望が多いのに、私はちょっと戸惑ったほどであった。少年の非行問題は、すべての大人が様々な角度から考えてみなくてはならないものである。というのは、日本の社会のあり方を示す一つの指標でもあるからだ。確かに、日本は他の先進工業諸国に比べて犯罪が少ないと言われているが、少年非行だけは他国なみに増加しているのである。つまり、我が国は大人にとっては比較的健全だが少年にとっては不健全ということになる。

子どもの育て方の問題についても、親が子を甘やかしてきたことに原因を求める人も多い。これは、かなり的を得ているけれども、その逆の面も重要である。現在ほど、自由の少ない子どもは歴史上珍しいと言っても過言ではない。試験勉強で日課はびっしり詰まっている。遊びの面でも、安全のためにという種々の制約により、のびのびと遊ぶことが少なく、自由に自己を発揮する機会も少ないのである。朕ということと同時に、子どもの自由とは何であるかを考え、その確保に努めることが大人の役目であろう。

四、憎まれ口

よく「悪妻は百年の不作」と言うが「子どもにとって、担任教師の悪さは一生の不作」になりかねない。高校生や大学生は学校を選択できるという点で、少なくとも間接的に教師を選ぶことができる。しかし、小中学生とその親には担任教師を選ぶ自由は与えられていないのである。この点を特に、先生方に考えてもらいたい。

今日までの日本の教育の「ガン」は学校の抱えすぎと家庭の預けすぎと言われてきた。学校の役割と機能には、おのずと限界があろう。このことを知らずして、家庭はあまりにも多くを学校へ預けすぎていたと思う。学校教育のあるべき姿を正しく位置づけ、その限界を明らかにする必要があったのである。そして、子どもの教育について最終的に責任を負うのは親であることの確認をしてほしいものです。

(元双葉町立双葉中学校長)

 

 

 

 

 


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