教育福島0096号(1984年(S59)11月)-031page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

天海の収書について

 

県立図書館

副主任司書 菅野 俊之

 

図書館コーナー

 

図書館コーナー

 

江戸時代初期の天台宗の高僧天海が、名古屋で病にたおれたという報を受けた幕府は、さっそく名医を江戸から直行させたが、夜半に箱根の山路にさしかかった時、突然の風雨でたいまつの火が消えてしまった。ところが、墨を流したような暗闇の中から多くの野狐があらわれて狐火をともしたので、医者は難なく天海のもとに着くことができたという。彼の生涯にはこのような神秘的な伝承が数多く残されており、いかに天海が絶大な信仰と崇拝を集めていたかを示す証左といえよう。

天海の生地に関しては十余説あるが、本県の会津高田町の出生とする説が有力であり、「大沼郡誌」は「会津高田の人なり」と断定しているし、その生涯については同町史に詳しい。

ところで彼は宗教家としてのみならず、収書事業においても活躍しており徳川家康の厚い信任をバックに、いわゆる天海蔵と総称される一大コレクションを残しているのである。慶長年間、比叡山教学の復興を計る基礎として彼は図書の収集に尽力し、その内容は単に天台宗のみでなく各宗派や神道、儒教、文学など多岐にわたっており、古写本、春日版、高野版等幾多の稀こう本を含んでいる。これは現在、大津市の叡山文庫に収納されているが、その数は「ふみくら日本の文庫案内」によれば内典六百部三千三百六冊、外典百七十九部一千八百十七冊で、天海蔵という墨書、あるいは黒印がおされている。

更に彼の渉猟した本は、栃木県の日光山輪王(りんのう)寺にも収蔵されており、これについては昭和四十一年に書誌学者長沢規矩也の調査に基づく「日光山『天海蔵』主要古書解題」が同寺より刊行されている。最近、本書を東京の古書店において入手することができたので、それによって天海蔵の一端を紹介してみたいと思う。なお、長沢規矩也は他に「『天海蔵』考」(「書誌学」復刊新七号)という論考も発表しているので、併せて参照する必要がある。

 

本書はB五判、本文百二十四ページで、別に巻頭三十二ページ分に天海蔵本の影印を掲載している。和本(写本、刊本、古活字版)、唐本(宋金元明刊本、朝鮮刊本)の順に収載されているが、その解題は非常に綿密であり書誌作成上、規範とすべきものといえよう。末尾に付された「『天海蔵』について」によれば、内容的には内典が多く、特に室町時代の僧侶の雑記が多い。しかし「何といっても、本蔵の特色は江戸初期の刊本にある。古活字印本は約二百三十部に上り、その中には、他所に全く伝わらないものがある。他に伝本があるものでも、出版当時の原姿のまま伝わっている。こういう古活字印本の集積は、近時の古活字版の蒐集品には全く見られぬものである。この現状は、江戸初期の整版本についても全く同様である。寛永時代の写本についてもいえる。これは、輪王寺が長い間、本蔵を一般に開放しなかったからである」という。

また、唐本の小説がやや多い点について「西遊記が三部もあり、叡山文庫にも一部あり、他の小説とかけ離れて読み疲れているのは天海大僧正が孫悟空の活躍を喜び愛読され、他人は之を天海大僧正が広く小説を愛好するものと過信して献上した結果とみる愚見はいかが」と記されているのは御愛敬。鎌倉末期の写本「一乗止観法門」の奥書に「奥羽陸国夫信(信夫か)郡書了」とあるのも注目される。

このように多くの重要文化財指定資料を含む天海蔵は、福島県人の手に成る収書としては、まさしく屈指の貴重なコレクションといえよう。なお、叡山文庫架蔵の天海蔵については「昭和法宝総目録」全三冊があるが、未見である。

 

最後に天海版一切経についてふれておく。これは天海の発願により寛永十四年に上野の寛永寺に経局を設けて開版され、慶安元年まで十二年を費やして完結したが、彼は完成を見ずして百八歳で世を去っている。初めは木活字による印刷で、後に整版に変っているがその木活字と版木は、今も寛永寺に保存されている。叡山文庫には天海版一切経六千余冊が所蔵されているが、これは日本最初の大蔵経刊行の企てであり、本邦出版史上における偉業と評されている。

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。