教育福島0097号(1984年(S59)12月)-024page
私の心を勇気づけ、ここまで何とかがんばってくることができました。また、多少元気はありすぎるけれど、素直で純朴な子どもたちが、「先生」と慕ってくれることが、大きな支えとなりました。
こうして一学期は、あっという間に過ぎさりました。通知票作成のときは、どうしてよいかわからず、先輩の先生方から教えていただいたりして提出しました。
また、子供達の顔を頭の中に描きながら指導案を作成し、授業に臨みましたが、なかなか思うように授業は進まず、苦労する毎日でした。
そして二学期が始まりました。「今日の仕事は今日のうちに、明日までのばさない」と心に決め、仕事に励んでいます。
今までいろいろな行事がありました。運動会はお祭りのようなにぎやかさ、いなご取りは生まれて初めての体験でした。なにもかも父兄総出の行事で、私には感動することばかりでした。このような地域の人々に接して、自分も精一杯仕事に励むことができそうです。
毎朝教室で「おはよう」と大きな声で迎えると、それに負けないぐらいの子供達の元気な声が返ってきます。そして、私の机の回りに集まってきては、昨日のできごとなどを口々に話し出すのです。私は「うん、うん」と一人一人の話を聞いてやります。休み時間などには、校庭や体育館で子供達と走り回ったり、一緒に遊ぶ日々です。私は常に子供達と言葉をかわし、肌と肌をふれ合わせるときが一番幸せです。澄んだ瞳で真剣に私を見つめる子供達の顔を見ると、もっと教材研究や資料作りをしなくてはならないと感じ、時間をかけがんばっています。私は今の子供達が大変かわいいです。三十四名が生き生きと毎日を過ごせるよう、心と心のふれ合いを大切にしていきたいと思います。
(都路村立古道小学校教諭)
これからが勝負
本間 晃市
私が、新採用教員として本校に赴任して、半年が経過した。この半年間には、数多くの新しい体験をしてきたように思われる。その中でも、現在心の中に最も大きく映るものは、部活動に関する体験である。
本校は、生徒数二十五名の極小規模校である。そのため、課外クラブとしては夏季は男女ともバレーボールを行っており、しかも、全生徒が部員となっている。幸い、私は女子バレー部の監督となったため、生徒と顔を合わせる機会が多く、物覚えの悪い私にとって最高の生徒理解の場が提供されることになった。
しかし、私はバレーボールの経験が皆無に近い。専門的な知識などないし、しかも苦手な女子を教えなくてはならなかった。四月、五月のころは生徒が練習しているのを見ているだけ、又はサーブを打っても思うところに打てないなど、今考えると非常に恥ずかしい。他校との練習試合のとき、スパイクを空振りして笑われ、生徒たちにまで恥ずかしい思いをさせてしまったこともあった。
それからは、生徒といっしょに自分も練習し、ときには生徒たちに教えられるという毎日で、生徒に教える余裕はほとんど無かった。当然、春の中体連では、私自身が大会慣れしていないことも手伝って、生徒たちの力を引き出せないまま終わってしまった。生徒たち、特に三年生に対しては、大変申し分けないことをしたと思っている。
春の大会が終わって心に余裕が出てきたところで、練習方法を私なりに作り変えることにした。専門的なことは、書物を読んだり、人から聞いただけでは分からないので、体力づくり、精神力づくりに重点を置くことにしたのである。六月から八月にかけては、ほとんどボールに触れさせず、校庭を走りまわらせた。
本格的にボールを使っての練習を始めたのは、九月になってからである。このときも、生徒には、ごく基本的であたりまえのことしか言わなかったし、また、言えなかった。
何度かの男子との練習試合、二度の他校との練習試合を経て、新人戦に臨んだ。大会では、一回戦で破れたものの、敗者復活戦で勝ちすすみ、堂々三位の成績をおさめた。市内のナンバースクールを二対一で破って三位になったときには、正直に言って涙が出そうになった。練習以上の出来であった。
今考えてみると、男子との練習試合を提案してくださった菅野先生、練習試合の時に教えてくださった山都二中の樽井先生、吾妻中の鈴木先生他、練習に協力してくださった方々のお蔭で
バレーボール部員と共に