教育福島0097号(1984年(S59)12月)-026page
かもしれないが、そう考えると、 「わかりません」などという言葉は決して使ってはいけないと思うし、また怖くて使えない。図書館がオープンしたばかりの頃だったと思うが、図書館の資料を駆使しても回答を得られなかった事があった。これではしょうがないと思い、「わかりません」と答えようとすると、「ここにはないが、どこどこになら資料があります」と、そこまで答えてあげなさいと注意されたことがある。あの時は、図書館に勤める者として、当然やらなければならない事に頭が回らなかった自分が、はらだたしく思えたものである。
さて、オープン以来多くの人が図書館を訪れたが、全ての人が図書館資料の利用者ではない。見学が目的で訪れた人もあるだろうし、友達などに付いて来た人もあるだろう。また、施設、いや単なる場所利用もあるだろう。もちろんこれは、本来の図書館利用という点からは外れているのだが、オープンしたばかりという時期的観点から見れば、それもいいと思う。まずは図書館を知ってもらうことが大事だと思うし、来館目的がどうであれ、図書館に来て、こんなふうになっているのか、こんな事もするのか、こんな設備もあるのかと、少しでも理解してくれればいいような気がする。要は図書館に対しての興味を持ってくれることだと思う。学問したい人だけが来て利用する図書館、それもいいじゃないか、という気持も正直なところ時々わくが、多くの人に図書館を利用したいという気持にさせることが、最初で最大の図書館の役目だとも考えられる。そして、個人の好奇心をそれぞれが満たそうという意欲を持つきっかけをつくっていくことが、図書館職員として一番大切なことのように思えるのである。
今の私は、まだきっかけどころではないように思うが、すべてが経験であると信じ、また、自分自身の学習の場でもあるのだということを再確認し、図書館学を学んできた中で最も印象深かった、「図書館は知る権利を保障する機関である」という言葉を忘れることなく、頑張っていきたいと思う。
(県立図書館司書)
ある生徒との出合から
菊地 良尚
「先生、これを見てもいいですか」と、その生徒が私のところへやって来たのは、四月も終わろうとするころであった。職員室へはよく姿を見せていたので見覚えはあった。またよく考えてみると私の書道も選択していたのである。先生方に聞いてみると、精神的に弱いところがあり所謂、登校拒否症を持っているということで、昨年もかなり欠席が多かったらしい。そんなことから、休み時間になると教室での居場所がなくなって、ここに来るのではないかということであった。
私がその生徒と話をするようになったのはちょっとした書の話からであった。王義之についてだいぶ興味があるらしく、『蘭亭序』を書いてみたいからいろいろと教えてほしいという。私もうれしくなって、王義之や蘭亭序について話をしてやった。それからである、私のところへ書道関係の本を見にやって来るようになったのは。新しい本が本棚に並ぶと、それこそ興味津々といった目で見ていた。七月に書道コンクールのあることを告げると、積極的に練習に取り組み、その成果があってかコンクールでは入賞することができた。これでだいぶ自信をつけた様子であった。
今年は昨年より欠席日数がずっと少ないということで、担任の先生は大変喜んでおられた。私にとっても、書道を通して微力ではあるが一生徒の力になれたことは非常に大きな意義を持つものである。ただしこれは他の先生方の応援があってこそのものであるが。
採用試験の二次面接では、芸術を通して生徒の個性を発見し、それを伸ばしてやりたいというようなことを言ったように記憶している。今考えると、随分と大胆なことを言ったものだと思うが、今回それに近い形で生徒の立ち直るきっかけを作ってやれたということは、大変な幸運であったと思うのである。また、ちょっとしたことで生徒の行動に変化が現われることを考えると、教師の与える影響というものが空恐ろしくさえ感じてくる。私自身が今あるのも、今まで巡り会った先生の、特に高校時代の先生の影響が強いため、よけいにそんなことを感じるのかもしれない。
教職について七ケ月が過ぎたが、その間何度となく生徒を叱りつけもしたし、ともに笑い転げたりもした。これもきっと教師の醍醐味というものなのであろう。とにかく、明日はいったいどんなことがあるのか楽しみな毎日である。
きっと明日もその生徒は元気に登校し、職員室に姿を見せてくれることだろう。
(県立船引高等学校教諭)
熱い視線を受けて
高橋 善章
震える身をおさえつつ、辞令をお受けしてから、はや半年が経過しました。
勤務を命ぜられた富岡第二中学校は私が学んだ母校よりは、はるかに近代化された校舎で、その充実した施設設備とよく整備された環境に、ただ目を