教育福島0098号(1985年(S60)01月)-025page

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ているのである。学校という一つの組織体の中では、一人一人が積極的に運営に参加することが大切なのである。

確かに、小学校の中学年の子どもは、一時もじっとしていられない。それだけのエネルギーをもっているのである。しつけを優先してエネルギーを不完全燃焼のままでおくと生活態度が一変してしまう。目の輝きや笑顔がなくなったり、学校生活に意欲がなくなったりしてしまう。苦慮して休み時間の運動や自然探索でエネルギーを消耗させ、学習に向かわせたものである。それで、生き生きとした姿に変容するばかりでなく、感受性が高められた。中学年では、発達段階からくる特性と、それを含めた一人一人の個性を把握した指導が大切であることを痛感させられた。

反面、中学校では、生徒と教師の人間関係を作るのに時間がかかる。それだけに工夫した対応にせまられる。

私たちは、毎日の教育活動の中で難題に直面することが多くある。しかし前向きの姿勢で取り組もうとするなら先輩や同僚の一言が解決する糸口になる。そして、それがどんなに力強く感じられ、教師として自分を磨くきっかけになるかしれない。

当然であるが、今、新しい時代を担う児童生徒を「人」としてどのような姿に育てなければならないか。その姿を自分なりにもつことが大切である。

期待する姿としては、「自主的主体的に学ぼうとする意欲をもち、最後までそれを追究してやり遂げるという強い意志力をもった人間」である。

これこそ、生涯を通じて社会の変化に対応できる「人の姿」なのである。

(中島村立中島中学校教頭)

 

話は見るもの

高橋正彦

 

述べることにした。前途ある青年諸氏に、なにかの参考になれば幸いである。

 

毎年「文化の日」ころを境にして、冬将軍到来の感が強い。分校に再着任して四年目、今朝も一面の霜と薄氷を車窓に出勤してみると、一通の文書が届いていた。「教育福島」誌の原稿執筆依頼である。しかも「若き教師に贈る言葉」には驚いた。「私ごとき者に、なにが書けよう」……苦慮した揚句、長い教員生活の中から平素実践していることを述べることにした。前途ある青年諸氏に、なにかの参考になれば幸いである。

 

一、話は見るもの

 

最近の高校生は、集会や講演会などで集まると「私語」が極めて多い。本校だけのものかと思い、他校の先生方に尋ねてみても大同小異で一般的な傾向だという。こんなことでは話の内容は耳に入らず、当然のことながら理解など期待するほうが至極無理である。思い余って「静かに」とか「頭を上げなさい」とかの制止に対し、ものの五分間ももたない。再三の注意にも持続性がない。私は「私語」があれば途中で話を止め、無言の行に入る。静かになったところで「話は見るもの、話す人の目を見て聞け」と反省を促す。授業中も同様、私の場合「私語」は殆んどなくなってきた。見ながら聞けばそのことにのみ意が注がれ、内容の理解や把握ができるのではないかと思う。また、最近はめっきり低学力の生徒が増え、板書事項のノートも極めて遅く、一字の記帳にも数回見ないと書けない者が半数に近い学級もあり、このことにのみ夢中になるため説明などは殆んど聞けずじまいになる。「わかる授業」以前の問題がある。こんなことから四十分間は板書しながら説明、残りの十分間は記帳と質問で授業を締めくくるようにしている。一〜二年来ペーパテストの平均点が向上している。

 

二、率先垂範

 

農業高校では実験実習の場が多く、極めて重要な学習活動である。特に低学年の生徒は農作業の体験が少なく、手とり足とり懇切丁寧に指導しないと怪我や実習からの逃避などの原因となる。興味を引き出し、技能や能率の向上を期するためには、グループや個別的にキメこまかな指導が要求される。常に実習は生徒とともにあって絶えず率先垂範、技能の上達を褒めながら先頭に立って汗を流すことにしている。

 

三、圃場環境

 

農業教師の多くは、大小にかかわらず生徒の実験実習の場である圃場や施設を担当している。もちろん栽培される作物は、実験等の目的によって多少の優劣の生ずることはいうまでもないが、そこに生育する作物と同様、周辺の環境整備に意を用いる必要がある。いかに立派な作物が栽培されようと、畦畔や通路に雑草が繁茂していたのでは、担当者の熱意や美的感覚が疑われる。圃場は担当者の顔であり、生命であることに留意し、施設内の整理整頓、周辺の清掃等にも十分気を配りたいものである。

 

四、地域農業の見聞

 

農業教育の効果を上げるためには、地域農業の経営実態を十分把握していなければならないと思う。

そのためには長期の休業などを利用して生徒の家庭訪問や先進農家の視察等を行ない、実態をつぶさに見聞して視野を広め、生きた教材として活用したいものである。

生徒の非行に追い回されての家庭訪問ではこの目的は達成されないでしょう。時には改良普及所や試験場等にも足を運び、できるだけ多く研修の機会を持ちたいものである。

(県立相馬農業高等学校飯舘分校教諭)

 

 

 


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