教育福島0100号(1985年(S60)04月)-022page

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とがうかがえる。

 

「月報」は、昭和三十六年度に教育委員会の広報事務が従来の教育研究所から秘書室へ移管された後も発行が継続され、昭和五十年度の二・三月号まで二百回余にわたって発行され、本県教育界へ多大の実績を残して昭和五十一年三月をもってその役目を終了したっ

なお当時の発行回数は相当のバラツキがあり、年四回から年十一回とその年ごとに違い、ページ数は二十ぺージ台から六十ページ台と様々であった。一回につき二千部から二千百部の発行部数であった。

 

二、各種広報誌の統合へ

 

学校教育の進展の中で県教育委員会の組織も変化してきた。昭和四十三年には義務教育課、高等学校教育課が設置され、それにともない義務教育課は昭和三十六年六月に「学校教育」を創刊、高校教育課も昭和四十年四月から「高校ふくしま」を発刊した。

その結果、県教委の広報誌としては「月報」「年報」「教育時報」(昭和三十四年六月創刊、昭和四十二年度に廃刊)のほかに前記の「学校教育」「高校ふくしま」と様々な形で発行されることとなった。内容的にも多様生をもつようになったが、その反面、誌面の重複、広報費用の増大等いくつかの問題が生じ、広報誌の一本化が検討されはじめた。

 

三、「教育福島」

 

以上のような動きの中で昭和四十九年度に各種広報誌の統合が検討され、種々の論議ののち翌年度より新生広報誌「教育福島」の発刊が決定された。

 

昭和五十年五月、統合誌「教育福島」の第一号が発行された。表紙は現場の教員が描いた絵で飾られ、時の県教育長三本杉國雄氏が次のような券頭言を寄せている。

 

−−さて、本年度から従来あったいくつかの教育情報機関誌を統合して、この「教育福島」を創刊することにした。

これまで各課各様の意見が出て、相当難行した結果であることはもちろんである。〜私は本誌を、本当に先生方の血となり肉となる、つまりつかみどころのある内容にしていきたい。−−

 

とあり、教育の各分野をとりこんだ総合月刊誌をめざすものであったことがうかがえる。

その編集内容は、グラビア(当初は白黒写真)、巻頭言、特集、図書館コーナー、わが市町村の生がい教育、教育センターから、統計に見る福島の教育、教育委員会だより、本県の文化財、学校紹介そして現場の教職員からの教育・随想のページ等ほぼ現行の編集方針の基礎をなすものでした。また特集には、教材の精選、生徒指導と進路指導、教育機器の活用、学校給食の充実等幅広いテーマが組まれ、教育庁各課の重点事項をつとめて掲載していく方針がとられている。

編集方針の確立にあたっては、教育庁内に広報委員会がつくられ、委員長には総務課長があてられ、毎月の編集会議で検討された。主な担当としては、総務課広報係がその任にあたり、現在に引き継がれている。

 

いろいろな広報紙・誌

いろいろな広報紙・誌

 

四、現在の姿

 

昭和五十年にスター十して以来「教育福島」は本年五月で百号を発行するに至っている。

その編集内容は、前述の方針をほぼうけつぐものであり、読みやすさ、役立つものへの工夫が少しづつではあるが積み重ねられてきている。

たとえば、カラーグラビアページの拡大、随想ページの拡大と色用紙の使用、現地取材記事を多くしてトピック的内容をふやす、表紙絵をシリーズ化する等である。

 

本号は、これまで述べてきたように「月報」から数えると約三百回の発行、「教育福島」になってから百号となる記念すべき号となりました。

今後は先人の残した貴重な実績を守り、更に読みやすく、親しまれる広報誌づくりをめざし、教育行政の一端を担っていきたいと考えています。

 

今後の本誌の発展のためにも関係各位、読者諸氏の御協力、御指導をお願いします。

 

 

 

 

 


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