教育福島0100号(1985年(S60)04月)-024page

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をしている。客も興味をそそられるのか、いろいろ聞き出そうとする。私も案の定(旅行すると食い意地が張ってしまう。)天海老を売っているおばさんの所で、食指を動かしてしまい、あまりのうまさに、腰をおろし、話をしたところ、朝市について、いろいろ教えてくれた。輪島の一日は、朝市で始まり、ゴザを敷く場所が、毎日同一の場所で、昼前には終ってしまい、夕市もあることなど。話が終るころには、両隣のおばさん達も話に加わり、これからの旅行を労ってくれた。それからしばらく歩き回って見たが、どの露店の人も、生活がかかっているにもかかわらず、そういう表情を見せずに、世間話をしながらゆったりした気持ちで、商売をしている。客のほとんどが、観光客だと思うが、売ればいいという儲け主義ではなく、素朴で暖か味のある雰囲気が、しみじみと伝わってくるようであった。もうなん十年も、この朝市で商売をすることによって(あるいは、なん代目かに渡って)ひとつの雰囲気がつくられ、これに調和するかのように、だれにも気兼ねすることなく楽しそうに会話をしている、おばさん達の姿がある。この姿が、朝市の顔となり、私にとって安らぎを得る場所となったのである。近い将来、なんらかの機会があり、再び輪島へ行くことができたら、朝市の顔を再確認したい。

(郡山少年自然の家主事)

 

季節感

間野英樹

 

いしく飲めるものです。これは酒が好きな人なら誰れでも感じることでしょう。

 

昔からよく、「旬を盛る」といわれます。だが近頃、家庭においては「旬を盛る」ということが、実感として味わえなくなってきているのは残念です。私も静かに酒を飲むことが好きなので酒の肴に季節感のある一寸した料理があると、酒は一層おいしく飲めるものです。これは酒が好きな人なら誰れでも感じることでしょう。

 

春の味である「セリ」「三ツ葉」などは一年中店頭に並び、形だけはそのものなのに自然の香りは薄れ、堀から摘んだセリや、庭先から取った三ツ葉のような特有の味はなくなってしまっております。 「目に青葉、山ホトトギス初鰹」といわれ、春の鰹は旬の代表として、昔は相当高価なものであったようですが、今では一年中どこでも食べられます。同じように、野菜・果物・魚など、なんでも季節感がなくなってしまっております。

生産技術・保存技術、流通径路などの発達によって、我々の食生活も大きく変化してきております。持にスーパーを中心に、消費者がよろこびそうなものを店頭に並べるため、消費者はめずらしさも手伝って買い求めるので、季節はづれのものが食卓にあがり、便利で豊かになったような気分でおります。だが反面、生活の中に情緒や味わいがなくなってきております。このようなことを感じるのは私一人だけではないでしょう。

 

現在の生活は便利さと豊富さが中心であり、家庭でも手のこんだ料理をさけ、手軽なものが又はスーパーの店頭から直接食卓へ出すというように簡略化しているところが多いようです。子供達も「いちご」や「トマト」が自然栽培の場合なら、いつ収穫できるのかさえわからないでおります。いずれも一年中店頭に並び、いつでも食卓に上がるもので、「いちご」が庭に熟し初夏を感じるなどということがなくなってしまっております。家庭でも「旬を盛る」ということがむづかしくなってきていると同時に、このような意識さえ薄れてしまっているようです。

 

このような現代の社会は生活に潤いを欠き、「無感動」を生む結果となっているのではないでしょうか。春の花秋の紅葉というような四季の移り変りを感じ、季節に応じた味覚を味わうことが、情緒を豊かにし、人間味をつくりあげていく要素になるのではないかと思います。科学が進歩し、技術が向上することは、生活が便利になり、我々にとっては良いことなのでしょうが一方、失うものも多いような気がしてなりません。

 

幸い私が住んでいる小野町には、まだまだ旧い生活様式が残っておりますし、春にはセリや三ツ葉を摘み、タラノ芽を取り季節感を味わうこともできます。ですので、生活も便利さのみに走らず。昔からの「生活の智慧」をより多く生かせるような生活に努めております。しかし子ども達にはそれが不評で、なかなか、良さがわからないようですが、きっと将来生きていく上で役立つのではないかという親心がかるわけです。

日本人特有の豊かな精神の育成をめざして、家庭では旬を盛り、社会では伝統的なものを大切にするよう努めたいものです。

(県立小野高等学校教諭)

 

 

 


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