教育福島0100号(1985年(S60)04月)-027page

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大きく実のる頃になるとようやく興味関心をもち始めたようです。特に収穫時、手にとってスイカに話しかけたり他のスイカと大きさを比較して自分の手で育て、立派に実をつけたことに感激している生徒達の姿を見ていると、スイカ栽培を通して生命の尊さを味わせることが大変よかったように思います。

 

昨年、生徒の父親からこんな手紙が届きまきました。「娘が高校に入学して早くも二学期が過ぎようとしていますが、最初は自分であまり乗り気でなかった学校のように、父の私には思われましたが、入学し新しい友達、先生方と共に生活している間に娘の心に本当にこの学校に入ってよかったと、娘の口から言うようになり安心している今日です。いままで何一つ作った事のない娘が、先生方の指導のもとで自分の力で作物を作ることの喜びを知ったからではないでしょうか、目を輝かしてスイカもなったとか、さつまいもが私に似て「デブ」が出来たと、はしゃいでいました。もっともそのはず娘の作ったスイカを食させて頂き福島でもこんなに甘いスイカが出来るのかと疑いたくなるほどでした。娘が得意顔になり祖母の家にわけてあげました。おばあちゃんが涙をこぼして喜んでくれました……」

 

親子の対話の時間が少ないといわれているなかで、スイカやさつまいもの試食を通じて家族で明るい話し合いの場とゆとりがもてるとしたら……。農業教育を通して、生徒の豊かな人間性の育成に役立つような農業学習の指導に傾注したいと考えています。(福島農蚕高等学校主任実習講師)

 

一通の手紙より

内山 美恵子

 

時に開園当時の大変だったことが、次から次へと思いだされなつかしくなった。

 

桜のつぼみもようやく、ふくらみはじめた暖かなある日、一通の手紙が、届けられた。それは十二年前、ある町の小学校の二教室を借用して、開園したばかりの幼稚園に勤務した折、一年保育で入園してきたA子からの手紙であった。「父親の転勤で四国にいくようになりました。四国にいく前に一度先生にあいたいので、こんどの日曜日に訪ねていきたい」という手紙であった。たった一年間の幼稚園生活であったのに、よくおぼえていてくれたと、胸の熱くなるものを感じた、と同時に開園当時の大変だったことが、次から次へと思いだされなつかしくなった。

開園したとはいえ入園式を目前にして、準備といっても机どころか、鉛筆一本画用紙一枚もないといった状態で気はあせるばかりであった。何をどうしたらよいかと深く考えている余裕など全くなく、ひたすら行動するのみであった。何もないところがらの出発がこんなにも大変なことかと、痛切に感じさせられた。

そんな中、右往左往しながら、小学校の講堂で迎えた入園式四歳児五十七名、五歳児二十八名計八十五名の園児とともに、小学校の校長と兼務の園長先生、教師二名というスタートであった。クラスは二クラスで四歳児のクラスと、四歳児十二名、五歳児二十八名の混合学級とであった。いよいよ保育が開始されると、小学校の教室を借りての保育のため、あまりさわがせては小学校の授業に影響するのではないかと気をつかい、近くの神社や、公園に行って思う存分からだを動かして遊ばせたり、小川や田んぼにいっては、おたまじゃくしや、ざりがにをとってきて、水槽にいれて観察したり、絵にかいたりといったふうに、自然にも大変恵まれた日々であったが、混合学級の保育の進め方にも、戸惑うことが多かった。また教室が古いため窓のすきまからは風や砂がはいり、天井といえば今にも落ちてきそうな天井だったりと、そんな中での保育であったが、園児達は、素直で明るく元気にのびのびとしていた。私たちも毎日そんな子供たちのために一生懸命、がんばっていこうという意気込みで、情熱にみちた貴重な日々であったと、なつかしく思われる。

 

あれから十二年、今では子どもたちが楽しく遊んだ田んぼや畑は団地になり、幼稚園もその団地の中に移転し、昔の面影を残すものは何もなくなったが、開園当時の子どもたちは、もうみんな高校生、目をみはるばかりに成長していく子どもたちを前に、そんな子どもたちに恥じないように、たゆまず努力を続けていきたいと思う。

A子からの思わぬ一通の手紙から、小学校のあの古い教室での、間借り生活をしていたころが、なつかしく思いだされた春の一日であった。

(いわき市立湯本第一幼稚園教諭)

 

 

 

 

 


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