教育福島0100号(1985年(S60)04月)-029page

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会津の地と私

佐藤京子

 

八年が過ぎようとしている。これは、私の教員としてのスタートと一緒である。

 

「日本人を知ろうと思えば、我々は京の嵯峨野の大沢の池のさざなみよりも、もっと会津の雪の中の歴史とひとの営みを、知る必要がある」と著名な歴史小説家に言わしめたこの会津の地に住むようになって、早くも八年が過ぎようとしている。これは、私の教員としてのスタートと一緒である。

私が、教員になりたいと思ったのは、小学校五年の時だったように思う。当時の私の母校は、上州のカカア天下とからっ風で有名な群馬県の東部に位置する一学年八クラスというマンモス校だった。三十五歳の男の先生が担任で、いつも肩車等をして一緒に遊んでくださった。体育が得意な先生で、体育の時間になると、先生も私たちも生き生きとしていた。先生が、補助をしてくださり、かなり難しい技にも挑戦していたように記憶している。毎日、登校するのが楽しく、先生の顔を見ると、ほっとする。先生が、出張で出かけられると、とても残念で、もの足りないような気分を味わっていた自分を、あのころから十数年たった今も、あざやかに思い出すことができる。私もいっか、体育の先生になりたいと思うようになり、実際に、体育の免許を持って教師となることができた。群馬と会津とところこそ違ってはいるが。

新採用のころ、上から押えつけられるようで、あれほどうっとおしいと思われた冬の灰色の空にも慣れ、今は、子どもたちと一緒に走ったり、泳いだりの忙しい毎日である。

しかし、とても心配なことが二つ。

あのころの先生よりも、だいぶ若輩である私が、現在、六年生を担任して、果たして十数年前に、あの先生にいただいた数々の影響を、三十七人の子供たちに与えることができるだろうかということ。

会津藩校日新館の「幼年者心得の廉書」などに書かれている教えが、現在も脈々と生きている会津のこの地で、少しでも子どもの成長に手を貸すことができるだろうかということである。

上州の青い高い冬の空を恋すると同時に、三十七名の六年四組の子どもたちを前にして、

「ならぬことは、なりませぬ」

と口をついて出る現在の自分をふり返り、ああ、私も会津の女になりつつあるのだなあと思うこのごろである。

とかく会津というと、質実尚武の武士の世界や勇ましくがんこなイメージを思いうかべるが、「会津の歴史」という本の中に、初めてアメリカに移民として渡ったおけいや、日本で最初の女子留学生としてアメリカに行った山川捨松、明治時代の女流作家若松賎子、同志社大学創立に当たった山本八重子、社会事業の先覚者として喜多方にも縁の深い瓜生岩子の名を見つけて、安心した。こんな大偉業ができるはずもないが、この会津にいても、女教師である私であっても、ほんの少しの教育のお手伝いならできるような気がした。

(喜多方市立第二小学校教諭)

 

先輩のぬくもり

山内 敏夫

 

は今ある自分の人生にとって心の糧となった思い出が誰にでもあることと思う。

 

教職にあって先輩の先生、それは今ある自分の人生にとって心の糧となった思い出が誰にでもあることと思う。

小、中、高等学校と県外で育った自分にとっては、そのころの恩師や同級生に会い、語らう機会がほとんどなくまた、教職という仕事にまったく縁のない環境で育っただけに、同じ職場に勤める先輩の生活態度を、意識的にしろ、無意識的にしろ、頼りにする気持ちが強かった感じがする。

二十数年になる教職で、つい四、五年前まで比較的自分より年上の先生の多い学校に勤務していたこともあって同輩、後輩というより、先輩の先生の言動を生き方の指針としてきた傾向が多いように思う。

 

そんな中で、新任地でのK先生と、二番目に勤めた学校でのM先生との出会いは、わずか一年間だけのお付き合いであったが、なぜか二十数年過ぎた今でも、年に一度は自宅を訪問し、そのころの思い出を語り合うなどしていることに何よりの心の安らぎをおぼえるのである。

もっとも自分にとってそのころは、勤めはじめの独身時代であって、暇があっても金がなく、宿直手当で食い扶持をつないでいたこともあって、仕事のことだけでなく、家族同然の付き合いをさせてもらい、生活すべてについて世話になっていたわけである。

あけっぴろげな人柄と、能ある鷹は爪を隠すではないが、けっして己れに驕ることなく、ぶらない人柄には、能のない自分にとっていろいろと学ぶことが多くあった。

よく、会津の人間はとか、浜育ちの人間はとか土地柄でもって人柄を評

 

 

 


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