教育福島0102号(1985年(S60)07月)-021page
随想 ずいそう
緊張・弛緩
蛭 田 瑞 穂
初対面者との会話の中では、きまって「あなたの趣味は」と、問われることが多い。また、公的な身分帳にも「趣味」の一項目があり、その人の人柄の一端を理解するのに役立っている。
最近になって、趣味について返答したり記入したりする時に、心の底に小さな動揺≠フ起こるのを感じている。かつては、いの一番に「スポーツ」と答え、その後に続くものがなくても胸をはっていたものである。若い頃から行っていたスポーツは、回数に多少の差はあれ、今でも続けているのだが、この小さな動揺≠ヘ、何なのだろうか。多分、物の見方、考え方の微妙な変化がそうさせているのであろうと思う。
若い頃のスポーツには、ある種の緊張感があって、そのはりつめた期待感と身体を動かす快さが、心身を解放し、生活に意欲を持ち、ゆとりを生む原動力となっていた。つまり、スポーツをすることそのことが、緊張をほぐし、疲れをいやす効用があったのである。
最近は、何か物事に集中的に取り組んだ結果、硬直した心身を緩め弛ませるためにスポーツをするように変化している。
わたしのスポーツは、心理的には、目的から手段に、生活の中では主流から亜流にランク下げになってきているようである。
この変化が、「わたしの趣味はスポーツです」と、胸をはれない”小さな動揺”を生んでいるようである。
しかし、よく考えてみると、わたしの生活からスポーツをとったならば、一体何が残るのだろうか。どうも、スポーツは若い頃にも増して、わたしの生活空間を広く支配しているようであり、勢力を拡大する勢いである。
スポーツが、わたしの生活の中で、亜流にランク下げになればなるほど、それに反比例して、その存在の意味が重くなってきている。
趣味イコールスポーツという行動に対する認識の変化は、この点にのみとどまらず、手段よりは目的に、亜流よりは主流にねうちを与えていた若い頃の価値観を変えつつあるのだなあと思う。目的があっての手段であり、亜流があっての主流なのだから同等であると考えている。中心部の高い価値を支える周辺部の役割の重さである。
わたしたちは、教室の中で集中力の大切さを説くことは多い。教室のみならず、課題を効率よく仕上げるには、緊張した精神作用が必要であり、それが集中力を生むのである。教室の中の課題は、学習者のためにセットした目標であるから、それを効率よく達成させるためには、集中力を説かなければならないのは必然であろう。が、ここにも小さな動揺≠ェ働くのである。
効率を生む緊張感は、ほどよい弛緩が前提にあって生まれるものであることを忘れたくないと思う。
(いわき市立勿来第二小学校教頭)
今、見えること
南 由美子
雨が降れば山々は霧にかすみ、青空が広がれば、鮮やかな緑が浮き出される一そんな昭和村の自然は、日ごとに違う姿を見せてくれます。
山あいの小さな村昭和は、人口二千人余り、一本道に沿って人々が生活しています。正直のところ、赴任が決まるまで昭和村の名さえ聞いたことがありませんでした。初めは、土地の様子、学校の様子、そして子どもたちのことなど、濃霧に踏み込んだようで、期待よりも不安の方がはるかに上回り、複雑な気持ちでした。
着任してから二か月が過ぎようとしています。本校、分校合わせて七十三名の小規模校。名前と顔を一致させるだけでも精一杯だった子どもたちのことも、次第に見えてくるようになりました。少しずつ慣れるに従って、あたりも見え始めました。